社長の初恋は悪魔だった 〜成功と引き換えに愛を失った男〜

ソコニ

第1話 社長の初恋は悪魔だった 〜成功と引き換えに愛を失った男〜

プロローグ:契約書

契約書 第四百二十三号

契約者:佐伯健一

契約日:昭和六十二年八月十七日

契約内容:富、地位、名誉の付与

代償:愛する能力の永久譲渡

履行予定日:令和七年十一月九日

備考:対象者は代償の内容を認識していない。契約時、対象者は十歳。意思能力あり。

契約悪魔:美月


この契約書は、暗い部屋の引き出しに眠っている。

引き出しの中には、他にも無数の契約書。

すべて「完了」の印。

だが、第四百二十三号には、まだ印がない。

あと三日。

佐伯健一の「全存在」が回収される日まで。


1

四十七階の役員室。

窓の外に広がる東京の夜景を見下ろしながら、私は紅茶を飲んだ。

従業員三千人。年商五百億。上場企業の社長。

この地位を手に入れるまでに、三十年かかった。

成功——その言葉が、これほど似合う人生もないだろう。

「佐伯社長」

秘書が声をかけた。

「明日の業界パーティーですが、同伴者のご予定は?」

「一人で行く」

「承知しました」

秘書が退室する。

私は窓ガラスに映る自分の顔を見た。四十八歳。白髪が増えた。

だが——奇妙なことに、私は自分の「若い頃」を思い出せない。

大学時代の記憶がない。高校時代も断片的。

小学生の頃から先が、霧の中だ。

携帯が鳴った。取引先からだ。

「はい、佐伯です」

「明日の件、よろしくお願いします」

「ええ」

電話を切る。

また携帯が鳴る。別の取引先。また別の。

気づけば一時間、電話対応をしていた。

誰かと「話す」ではなく、ただ「処理」している。

ふと、思った。

私は——誰かを愛したことがあるだろうか。


2

翌日のパーティー。

ホテルのボールルーム。業界の有力者が集まる場。

私は適当に挨拶を交わし、シャンパンを手にロビーに出た。

「久しぶり、健一」

背後から、声。

振り返ると——黒いドレスの女性が立っていた。

二十代半ば。だが、その顔を見た瞬間、私の中で何かが動いた。

「……誰だ」

「美月よ。忘れたの?」

美月——。

その名前が、頭の奥で反響する。

記憶の断片。夕焼けの校庭。ブランコ。隣に座る少女。

「お前……」

「そう。あなたの初恋の相手」

彼女は微笑んだ。

だが、その笑みには何の温度もなかった。

「なぜここに」

「会いに来たの。約束の日が近いから」

「約束?」

「契約よ」

彼女はシャンパングラスを手に取った。

「あなた、三十八年前に私と契約したでしょ」

私は首を振った。

「何を言っている」

「じゃあ、思い出させてあげる」

彼女が私の手を取る。

その瞬間——


3

視界が歪む。

気づくと、私は小学校の校庭にいた。

夕焼け。誰もいない。

ブランコに、少女が座っている。

美月だ。

そして——その隣に、十歳の私がいる。

「健一くん、泣いてるの?」

「……うん」

「どうして?」

「お父さんとお母さんが、喧嘩してる。お金がないって」

少年の私は、涙を拭った。

美月は優しく頭を撫でた。

「じゃあ、お金持ちになりたい?」

「うん」

「いいよ。叶えてあげる」

「本当?」

「本当。でもね——」

美月は少年の私の目を見つめた。

「その代わり、一つだけもらうね」

「何?」

「あなたの中の、一番大切なもの」

少年の私は、何も考えずに頷いた。

「いいよ」

美月が、額にキスをする。

その瞬間——少年の胸から、赤い光が抜け出た。

光は美月の手の中で、小さな球体になった。

「これで、契約成立」

美月は球体を飲み込んだ。

少年の私は、何が起きたのか分からない顔をしている。

だが——その目が、わずかに虚ろになった。


4

視界が戻る。

私はホテルのラウンジにいた。

美月が向かいに座っている。

「思い出した?」

私は震えた。

「あれは……」

「あなたの『愛する能力』よ」

美月は淡々と言った。

「十歳の時、あなたはそれを私にくれた。その代わりに、成功をあげた」

「嘘だ」

「嘘じゃない」

彼女はバッグから、古びた紙を取り出した。

契約書。

子供の字で書かれている。

「ぼくの一ばんたいせつなものを、美月にあげます」

署名:佐伯健一

「これ……」

「有効よ。あなたが自分で書いた」

私は紙を奪おうとした。だが、手が届かない。

「そして今日——」

美月は時計を見た。

「契約の履行日よ。三十八年分の成功、すべて回収する」

「何を言っている」

「あなたの成功、全部私が作ったの」

彼女は指を一本立てた。

「思い出してみて。最初の大口契約、誰が紹介した?」


5

二十三年前。二十五歳。

私は営業マンだった。大口取引先に提案書を持って行く。

だが——相手にされない。

「申し訳ないが、君の会社とは取引実績がないんだ」

私は頭を下げて、ビルを出た。

廊下で、女性とぶつかった。

「すみません」

「いえ」

彼女は微笑んだ。

美月だった。

「お仕事、うまくいかなかったの?」

「……ええ」

「じゃあ、紹介してあげる。私、あそこの役員と知り合いなの」

「本当ですか?」

「本当」

彼女は私を会議室に連れて行った。

そこにいた役員に、私を紹介してくれた。

「この方、とても優秀な方よ。一度話を聞いてあげて」

役員は彼女の頼みを断れず、私の提案を聞いた。

契約が成立した。

私のキャリアが、始まった。


6

十八年前。三十歳。

私は独立した。だが資金がない。

銀行で融資を申し込む。

担当者は渋い顔をした。

「実績が少ないですね」

「これから作ります」

「うーん……」

そこに、別の行員が入ってきた。

美月だった。

「田中さん、この案件、私が見ます」

「え、でも」

「大丈夫」

彼女は私の事業計画書を見て、頷いた。

「融資、通します」

「本当ですか?」

「ええ。あなた、成功しますよ」

融資が下りた。

会社が軌道に乗った。


7

十三年前。三十五歳。

上場準備。証券会社の審査。

厳しい質問が続く。

「この売上の伸び、本当ですか?」

「はい」

「にわかには信じがたいですね」

審査員たちが顔を見合わせる。

その中の一人——美月がいた。

「私は、信じます」

他の審査員が驚いた顔をする。

「君、本気か?」

「ええ。この会社は本物です」

審査が通った。

上場が実現した。


8

現在。ラウンジ。

美月が言った。

「分かった? あなたの成功、全部私が作った」

私は呆然とした。

「じゃあ……俺の努力は」

「演出よ」

彼女は冷たく笑った。

「あなたに『自分の力だ』って思わせるための」

「なぜだ。なぜそんなことを」

「契約だから」

美月は立ち上がった。

「あなたは愛を失った代わりに、成功を手に入れた。でもね——」

彼女は私の肩に手を置いた。

「愛のない成功って、何も残らないの」


【外部視点】秘書の証言

翌日。人事部長との会話。

「部長、佐伯社長のことなんですが」

「何?」

「社長、結婚されてましたよね」

「いや、独身だよ」

「え、でも五年前に離婚って」

部長は首を傾げた。

「佐伯社長、結婚したことないはずだけど」

秘書は混乱した。

「じゃあ、私が覚えてる結婚式の写真は……」

「知らないな」

秘書は自分のスマホを確認する。

フォトフォルダに、佐伯社長の結婚式の写真があったはず。

だが——ない。

削除した覚えもない。

「おかしい……」


9

その夜、私は会社に戻った。

役員室のデスク。引き出しを開ける。

家族の写真——があったはずだ。

だが、ない。

妻との写真。

あったはずなのに。

いや——本当にあったのか?

私は、結婚していたのか?

記憶を辿る。

妻の顔が、思い出せない。

名前も、思い出せない。

「そもそも——」

私は呟いた。

「俺は、誰かを愛したことがあるのか?」

部屋が、静かだ。

答えは、ない。


10

翌朝。

会社に行くと、エントランスで警備員に止められた。

「すみません、社員証を」

「俺は社長だ」

「社長?」

警備員は首を傾げた。

「当社の社長は田中ですが」

「何を——」

私は警備員を押しのけて、エレベーターに乗った。

四十七階。

役員室のドアを開けると——知らない男が座っていた。

「君、誰だ」

男が立ち上がる。

「それはこっちの台詞だ。どうやって入った」

「ここは俺の部屋だ」

「何を言ってる。俺が社長の田中だ」

壁を見る。

田中という男の表彰状。写真。

私の痕跡が、ない。

「セキュリティ!」

警備員が駆けつけ、私は引きずり出された。


11

私は銀行に走った。

窓口。

「佐伯健一の口座を確認したい」

「本人確認をお願いします」

免許証を出す。

行員が画面を見て、首を傾げた。

「該当する口座がございません」

「あるはずだ」

「申し訳ございません」

次の銀行。証券会社。

すべて同じ。

「佐伯健一」という名前の口座が、ない。

私は——消されている。


12

夜。公園のベンチ。

最後の現金で買ったコーヒーを飲んでいると、美月が現れた。

「つらそうね」

「お前……」

「契約、履行してるの」

彼女は隣に座った。

「あなたの会社、財産、名前——全部回収した」

「なぜこんなことを」

「契約だから」

美月は夜空を見上げた。

「でもね、健一。本当は気づいてたでしょ」

「何を」

「自分の成功が、空っぽだったこと」

私は黙った。

「あなたは三十八年間、誰も愛さなかった。愛せなかった。妻も、社員も、誰も」

彼女の言葉が、胸に刺さる。

「だから、あなたは孤独だった」

「……そうかもしれない」

私は認めた。

「じゃあ、最後に聞くわ」

美月は私の目を見た。

「もし戻れるなら——十歳の時に戻れるなら、契約をやり直す?」

私は——答えられなかった。

なぜなら。

成功のない人生を、想像できないから。

「そう」

美月は立ち上がった。

「じゃあ、さようなら」

彼女が指を鳴らす。

私の体が、透明になっていく。

「待ってくれ」

「もう遅いわ」

指先から、腕から、胸から。

輪郭が溶けていく。

私という存在が、空気に還る。

最後に——美月の顔が見えた。

彼女は、泣いていた。

「ごめんね」

その声だけが、耳に残った。


【外部視点】記者の記事

某経済誌・特集記事

『消えた社長・佐伯健一の謎』

上場企業の社長として知られた佐伯健一氏。

だが、彼の経歴を調査すると、不可解な点が多数浮上する。

出生記録がない。戸籍にも、住民票にも、彼の名前は存在しない。

関係者に取材すると、「そんな社長、いなかった」という証言が相次ぐ。

では——この三十年間、誰が会社を経営していたのか。

現社長の田中氏に尋ねると、こう答えた。

「創業から、ずっと私です」

記録を確認すると、確かに田中氏の名前しかない。

佐伯健一という男は——本当に存在したのだろうか。


13

美月は街を歩いていた。

ポケットに、契約書が入っている。

契約書 第四百二十三号:完了

彼女は引き出しにそれを仕舞った。

隣には、無数の「完了」済み契約書。

そして——新しい契約書が、一番上に置かれた。

契約書 第四百二十四号

契約者:田中裕介

契約日:令和七年十一月十日(予定)

契約内容:調整中

美月は引き出しを閉じた。

鏡を見る。

彼女の目が、赤く光る。

だが——その目に、一滴の涙が残っていた。

「私も……」

彼女は呟いた。

「終わらせたい」

だが——契約は、終わらない。

人間が欲望を持つ限り。


14

公園。

十歳の少年が、ブランコに座って泣いている。

「どうしたの?」

美月が声をかける。

「お父さんが……会社をクビになったんだ」

「そう」

美月は隣に座った。

「じゃあ、お金持ちになりたい?」

少年は顔を上げた。

「……なれるの?」

「なれるよ」

美月は優しく微笑んだ。

「その代わり——」

少年が頷こうとした時。

美月は、わずかに躊躇した。

(やめようか)

(この子を、救ってあげようか)

だが——彼女の手が、勝手に動く。

「一つだけ、もらうね」

少年が頷いた。

美月の目から、涙が一筋流れた。

少年は、それに気づかない。

契約が、成立した。


エピローグ:悪魔の独白

美月の日記より

私は、悪魔。

人間の欲望を叶え、対価を奪う。

それが私の仕事。

でも——時々思う。

私は、誰の欲望で動いているんだろう。

人間は、私を呼ぶ。

「成功したい」「金持ちになりたい」「認められたい」

私は、それを叶える。

でも——彼らは気づかない。

自分が何を失ったのか。

佐伯健一は、愛を失った。

田中裕介も、きっと何かを失う。

次の契約者も。その次も。

私は——何百年も、この仕事を続けてきた。

もう、飽きた。

終わらせたい。

でも、終われない。

なぜなら——

私自身も、契約の中にいるから。

誰かと。

いつ。

何を代償に。

もう、思い出せない。


ある夜。

美月は古い教会を訪ねた。

誰もいない礼拝堂。

祭壇の前に、跪く。

「神様」

彼女は祈った。

「私を、解放してください」

沈黙。

「お願いです」

涙が、床に落ちる。

だが——答えは、ない。

美月は立ち上がった。

明日も、契約がある。

明後日も。

永遠に。

彼女は教会を出た。

夜の街に、戻っていく。

どこかで、誰かが欲望を抱いている。

それを叶えに、彼女は歩く。

赤い目を、隠して。


【終】


附記:佐伯健一の最期の記録

小学校の倉庫に、古い卒業アルバムがある。

そこに——名前のない少年の写真。

顔は笑っている。

まだ何も失っていない頃の、純粋な笑顔。

だが、その目は——少しだけ、虚ろだ。

まるで、もう何かが欠けているかのように。

そのアルバムを、誰が開くこともない。

ただ——時々、夜中に。

写真の少年が、動く。

口が開いて。

「助けて」

そう言っている。

誰にも、聞こえない声で。

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