第十話 真実
待ちに待った週末がやってきた。この数日間ほど、アインシュタインを恨んだことはなかった。
ひなたは友達の家へ泊りにいって、週末一杯は家を留守にしている。
昼食は、彼女が用意していってくれた作り置きの焼きうどんで済ませ、身じまいを整えると、いざ覚悟を決めて、出発した。
オフ会会場は、星川駅からすこし入り組んだ場所にある、知る人ぞ知る、地下のカラオケ店である。これは、あまり人眼に付きたくないという先方に対する配慮である。
カラオケに来たのは何時ぶりになるか、判然としないくらいご無沙汰であったが、どこかから厚いまくをとおしたような漠とした歌声が漏れきこえてくる、防音室の、外界から遮断された空間は嫌いではない。
弓月先生はすこし遅れてくるらしく、独りカラオケ店の個室で待っているときの緊張感といったら、たとえんかたもなかった。SNS上での二年間の交流があるとはいえ、実際に顔を合わせるのは初めてのことでもあり、息苦しくないように比較的ひろい部屋をとったが、それにしても緊張しないわけはない。
学生だというので(恐らく大学生だろう)、菓子折りのような儀礼ばったお土産は持参しないことにしたが、それで本当によかったのか、弓月先生は自分のことをどう思うであろうか、やはりこの会合を怒っていらっしゃるのではないか、そもそも来るのであろうかと、くさぐさのことが憂えられて、いっかな心が落ち着かなかった。
それでも刻一刻と時間はすぎていって、約束の十三時が目前に迫った。
そのとき、スマートホンが反応して、弓月先生からのメッセージを着信した。
【いま、お店の前に着きました。もう一度確認しますが、203号室でお間違いありませんか?】
【はい、まちがいありません】
【分かりました。すぐに伺います。】
運命の瞬間が来た! もう逃げられない。スマートホンをもつ手が、あたかもお酒の杯をもつ手のようにしきりと震えた。
もう一分もしないうちに、俺と弓月先生は対面しているだろう。俺は一度たちあがり、また座った。居ても立ってもいられず、せわしなく部屋をうろつきまわりたいが、そんな時間もない。俺はいまになって、部屋のなかにいては、どこにも逃げ場がなく、なすすべがないことに想い到った。
懊悩もはや尽き果てた。一分が何倍にも何十倍にも引き延ばされるような、相対性理論のめくるめく眩惑のうちに、どこか空漠とした、なにも考えられない麻痺状態に陥り、炯々として見開いた眼だけが、もの言わぬ扉を凝視していた。
いよいよ緊張感が頂点に達し、飽和点を超した緊張感が声ならぬ悲鳴となって溢れ出さんとする刹那、おもむろに、防音室の矩形に切り取られた扉が、内側に折れていった。
そこに立ち現れた人影と、眼と眼が合う。
――弓月先生ですか?
俺がそう口を開くより早く、その背後から、もう一人男が現れた。
「バカ。そこじゃねーよ」
「やべ、まちがえた」
といって扉が閉められる同時に、爆笑の尾を曳いて気配が遠ざかっていった。
俺は、合成皮革のところどころに襤褸がで始めている緋の
『ハラハラするねえ』
愉しそうに足をぶらぶらとさせた幽子が、隣に腰かけている。彼女も俺とおなじ服を着ていた。
俺は緊張の糸が切れた、魂のぬけた操り人形のような虚ろな眼で彼女を見返した。
その時だった。音もなく扉が開いたのは。
俺は反射的に顔を上げた。すでに緊張感は空気の抜けた風船のように萎み、なんの覚悟もないままただ漫然と顔をふり上げたのだった。
扉があった場所に、
頭抜けた標高をほこる長身痩躯が、いまは漆黒のビジネススーツとスラックスがらみ、やや色味の濃い暗黒色のチェスターコートに鎧われ、アクセントとして配された紺地のネクタイがややぼやけさせた全体の印象が、上品な黒革の革靴で引き締められて、年齢にそぐわぬ洗練と成熟を醸している。
一見して、大学生でも十分通じるだろうし、知らない人間がみたらそう思うにちがいない。
しかし、俺は彼女が大学生ではないことを知っていた。
「
神月が、いつもの無表情をわずかに崩して、扉に手を掛けたまま、凍りついていた。
……互いの間に、
最初に呆然自失から覚めたのは、前回とは逆に、俺の方だった。
「……あの、部屋をまちがえてるぞ」
と言い終わるが早いか、扉が閉められた。
『ねえ、速人くん』
「黙れ。そんな訳がない。そんな訳が……」
しかし騒ぎ立つ心を静める術を知らず、呆然とするばかりの俺の手に握られたスマートホンが、震える。
【203号室に着きましたが、先客がいます。恐らく部屋番号をお間違えのことと存じますが、もう一度、確かめてもらってもよろしいでしょうか?】
そうだ。これはきっと何かの間違いだ。俺はもう一度部屋番号を教えた。
すると、部屋のまえから気配が遠ざかっていき、あたりに静寂が訪れた。
ほっとして、目を瞑り、急に石のように重くなった頭が膝のあいだに項垂れる。
数十秒たって、ふたたび扉が開いた。
神月が、扉の隙間からわずかに顔をのぞかせて、部屋のなかを覗き込んでいる。
俺が何かをいう前に、扉は閉められ、気配が次第に遠ざかっていく。
しかし、すこしするとまた気配が近づいてきて、扉が開かれる。
ふたたび瞶め合う俺たち。
神月はなぜかまた扉を閉めると、またどこかへ歩き去っていった。しかし案の定、きっかり数十秒すると戻ってきて、また203号室の扉を開けるのだ。
それを無限に繰り返す。
『こ、壊れちゃった……』
神月は回廊をぐるぐると巡り、203号室のまえに立ち止まるたびに、扉を開け、中に俺がいることを確認するとまた閉め、また回廊をぐるぐるとし始める。それは何かの映画で観た、ループする空間から脱出しようと必死にもがく、一見すると奇怪にしか思われないが、当人はいたって真面目な登場人物の行動を思わせた。
神月からすれば、扉を開けて、部屋のなかに俺がいれば、今回の試行は失敗で、ふたたびループの渦に巻き込まれてゆく、今度こそはと扉をあけるたびに、中にはまた俺がいる。部屋のなかに「
しかし、いくら試行回数を重ねても、神月が望む結末は永遠にやってこないと、俺だけが知っている。混乱している神月を見ているうちに、だんだんとこの状況に慣れ、かえって冷静に現実を受け容れる心が俺のなかに醸成されつつあった。
神月が何度目かの確認作業をし、今回のループも失敗だったと扉を閉めるやいなや、俺は扉のところまで立っていって、こちらに背を向けて歩き去っていこうとする、その丈長い黒影にむかって声をなげかけた。
「神月……いや」
俺は、迷いをふり払うように、ある種の未練を断ち切るように、しかしそれでもまだ一縷の望みをこめて、祈るように呼びかけた。
「
廊下の途中で、神月はまったく動きを停止した。こちらに
たっぷり十数秒は静止していたと思われる。
しかしそれでも、彼女もじょじょに現実を受け入れ始めてきたのか、おもむろにこちらに振り返ったその顔には、すでに常の落ち着きがあり、切れ長な形のいい眼尻にわずかに皴を寄せて、
「……
と、呻くように呟いたことで、俺の淡い期待も、もろくも崩れ去ったことになる。
神月小夜が、弓月無満?
それは、この世でもっともナンセンスで、ちっとも面白くなく、まったくもって笑えない冗談だ。
『ホンット、キミたちってば面白いなあ』
呆然と敷居を挟んで向かい合う俺たちの間を、幽霊の笑い声だけが
弓月無満の正体が神月だったということは――
明日、地球は滅ぶのかもしれない。
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