第5話 焔は、あったかい
「印とは、世界が最初に書いた祈りの形である。」
この世界における〈印〉とは、
神代――命そのものが世界を形づくるために刻んだ根源の文法である。
それは祈りであり、法則であり、そして“存在そのもの”。
人が息をするように、
世界は印を結び、風を生み、大地を築き、炎を灯した。
その記録こそが「九根(こんいん)」――
すなわち、世界の根となる九つの印である。
印を理解し、扱える者はごくわずか。
古き時代には“神の代弁者”として畏れられた。
だが、封印戦争ののち――
世界から真なる印の理(ことわり)は失われた。
人々はその欠片を拾い集め、模倣を始める。
その模倣こそが、
後に“遁(とん)”と呼ばれる新たな術体系を生んだ。
⸻
「遁とは、人が印を真似て編んだ言葉である。」
“遁”とは、失われた印の理をもとに、
人間が独自に築き上げた現代印術体系である。
かつて“神々の言語”だった印を、
人の身でも扱えるよう“翻訳”したもの――
それが遁の本質である。
火、水、風、土、雷――
五つの自然属性を基礎に、
各国はそれぞれ独自の遁体系を発展させていった。
それらは、印の欠片――すなわち**印素(いんそ)**と呼ばれる
世界のエネルギー粒子を変換・操作して発動する。
遁はあくまで“技術”であり、
印のように世界そのものの理(ことわり)を動かすことはできない。
しかし、印を正しく理解した者が遁を用いるとき、
その威力は桁違いのものとなる。
印は“世界の言葉”。
遁は“人の言葉”。
両者が交わるとき――
そこに、“神と人の境界”が生まれる。
⸻
「――おい! 聞いてんのか? ツバサ!」
現実に引き戻すような大声。
黒板の前に立つのは、片腕の教師〈こうまハガネ〉。
いつものように腕を組み、教壇からじろりと睨みつけてくる。
「はい聞いてます!」
ツバサは慌てて背筋を伸ばし、
目をこすりながら半分寝ぼけた声で答えた。
「先生と行ったラーメン屋の話でしたっけ?」
「違うわ馬鹿野郎!」
教室がどっと笑いに包まれる。
だが、その中でくすくすと別の声も混じる。
「ほら、あれが“呪いの子”だよ」
「焔印のやつでしょ? また暴発したらどうすんだよ」
笑い声が少しずつヒソヒソに変わっていく。
ツバサの耳には、どの声も刺のように届いた。
(……またかよ)
ツバサは椅子をそっと引き、立ち上がる。
ハガネが黒板に向き直った、その一瞬の隙を狙って――
教室の後ろのドアからこっそり抜け出す。
廊下は、さっきまでの喧騒が嘘みたいに静かだった。
窓から差し込む光が、床に四角い影を落としている。
(……くそ、今日も全然ダメだった)
ツバサは視線を落とし、教科書を持ったまま歩き出す。
文字がゆらいで見える。
――寝不足だ。
昨夜、焔印を制御しようと、ほとんど眠っていなかった。
だけど、それでも止める気はなかった。
心のどこかで、信じていた。
(焔は呪いなんかじゃねぇ……俺の“証”なんだ)
――灰隠の空。
灰色の雲の向こうで、かすかに陽が揺らめいている。
その焔はまだ小さい。
だが確かに、ツバサの胸の奥で燃えていた。
その日、灰隠アカデミーの門前が少しざわついていた。
風がざらついた砂を巻き上げ、訓練帰りの生徒たちが立ち止まる。
「……おい、帰ってきたぞ」
「本当か? 任務、焔牙国の国境だったって聞いたけど……」
ざわめきの中心――
そこに、砂埃を払うように歩いてくる少年がいた。
漆黒の外套を肩にかけ、腕には新しい任務章。
短く切った髪に陽光が反射し、その瞳は澄んだ蒼。
ひと目で、誰もがその名を思い出す。
「おぉーカイ、任務どうだったんだ?」
群衆の中から声を上げたのはツバサだった。
口元には笑みを浮かべているが、心臓の鼓動が少し早い。
前に会ったときの、あの微妙な距離――
それがどうしても気になっていた。
カイは立ち止まり、少しだけ笑った。
前のような遠慮や戸惑いはもうない。
その目には、自信と――どこか別の光が宿っていた。
「……余裕だった」
短く、静かな声。
けれど、周りの空気が少しだけ震えた気がした。
戦場を歩いた者の空気を、ツバサは感じ取っていた。
「さすが首席だな、もう立派な印術師って感じじゃねぇか」
軽く言ってみせるが、胸の奥がざわつく。
“羨ましい”という言葉を飲み込むように、笑ってみせた。
カイはそのままツバサの前を通り過ぎ――すれ違いざまに、ぽつりと言う。
「お前こそ、まだそんな顔してんのかよ。ボンクラ焔が」
一瞬、風が止まったように感じた。
その言葉には挑発も優しさもない。
ただ、昔と変わらない調子で名前を呼ぶ代わりの、照れ隠しのようだった。
「先に行くぜ、ツバサ」
背中越しにそう告げるカイの声は、まっすぐだった。
ツバサは拳を握り、目を細める。
背中越しに答えるように、静かに呟いた。
「……すぐ追い越す、カイ」
風が再び吹き抜ける。
その砂の音が、まるで約束の証のように耳に残った。
――二人の間に漂うのは、友情か、競争か。
その時、ツバサ自身にもまだ分からなかった
夕暮れの訓練場。
砂に染みる陽光が、ゆっくりと朱に変わっていく。
ツバサはいつものように木人を前に立ち、両手に焔を灯そうとしていた。
だが、また暴発しそうになるたびに、火が不安定に揺らめく。
「くそ……どうして、上手く……」
掌の中で焔が弾け、焦げた砂が舞い上がった。
ツバサが歯を食いしばると、その背後から柔らかい声がした。
「ツバサ君――」
振り返ると、夕陽を背にユナが立っていた。
灰銀の髪が風に揺れ、淡い桃色の瞳が優しく光を映す。
彼女は手に持っていた包帯を下ろし、微笑んだ。
「ツバサ君、もっと優しくなれば強くなれると思うよ」
唐突な言葉に、ツバサは瞬きをした。
「優しく……?」
「うん。あなたの焔は、力じゃなくて“心”そのものだから」
ユナは両手を胸の前で組みながら、静かに言葉を続けた。
「遁は印を結んで理を動かすけど……あなたの場合、印は“心”で結ぶの」
「心で、か……」
ツバサは小さく息を吐き、地面を見つめる。
焦げ跡がいくつも残る砂の上――そこに自分の迷いも刻まれている気がした。
「分かってるんだけどさ、それが……難しくて」
ユナはふっと笑った。
「イメージだよ。運動神経と一緒。“できる”ってイメージが大事なの」
「イメージ……」
「うん。炎を抑えるんじゃなくて、灯すの。
怒りや焦りじゃなくて――“想い”を燃やすイメージ」
ツバサは黙って目を閉じた。
深呼吸をひとつ。
胸の中心に意識を向ける。
そこにあるのは、熱でも痛みでもなく、静かな鼓動。
その鼓動の音に合わせて、ゆっくりと息を吐いた。
――ふぅ。
次の瞬間、ツバサの腕に紅蓮の紋様が浮かび上がる。
焔印が心臓の鼓動と共鳴し、穏やかな赤光を放った。
今までのような爆ぜる炎ではなく、
まるで暖炉のように、柔らかく包む焔。
「……これが……」
ユナの瞳がわずかに見開かれた。
ツバサの全身を薄く覆う紅蓮の光。
それは怒りの炎ではなく、“生きようとする意志”そのものだった。
「すごい……ツバサ君、それがあなたの焔」
ツバサはゆっくりと目を開けた。
風が流れ、髪が揺れる。
その焔は暴れず、むしろ風と溶け合うように揺らめいている。
「……不思議だな。あんなに暴れてたのに……今は、静かだ」
ユナは微笑んだ。
「“灯す”って、そういうことだよ」
ツバサは手を見つめ、そしてふと笑った。
「……ありがとう、ユナ」
その笑顔に、ユナは少しだけ頬を染めた。
夕陽が沈み、焔と光が重なる。
その夜――ツバサは初めて、
“焔が痛くない”という感覚を知った。
夜の訓練場は、昼とはまるで別の世界のようだった。
昼間の熱気はすっかり消え、砂の上を冷たい夜風が静かに撫でていく。
遠くの見張り台では小さな焚き火がゆらめき、虫の声が淡く夜気に溶けていた。
ツバサは木人の影に腰を下ろし、指先で冷えた砂をすくう。
その指には、まだわずかに焔印の余熱が残っていた。
微かなぬくもりが、昼間の戦いの名残のように脈打っている。
隣にはユナがいた。
膝の上に広げた布の上には、薬草と包帯が丁寧に並べられている。
癒印の淡い光が、夜の闇をやさしく照らしていた。
その光は炎の赤とは違う――穏やかで、包み込むような温もりを持っていた。
「……なあ、ユナ」
ツバサはぽつりと口を開いた。
夜の空気に混じるように、声が少し掠れていた。
「ユナは……なんで俺に気にかけてくれるんだよ」
その問いに、ユナの手が一瞬止まる。
包帯の隙間から覗く焔印が、淡く灯った。
「……貴方の焔が、暖かくて素敵だと思ったから」
その言葉は、風のように静かだった。
けれど、ツバサの胸に落ちた瞬間――
心の奥で何かがじんわりと熱を持ちはじめる。
ユナは少し俯き、それでも続けた。
「だから――近づきたいと思った」
ツバサは目を見開いた。
今まで誰もそんな風に言ってくれたことはなかった。
焔印を宿したその瞬間から、
彼に向けられてきたのは“恐れ”か“拒絶”か――あるいは“利用価値”の話だけ。
「……呪われた俺でもか?」
かすれた声でそう呟くと、
ユナは包帯を結び終え、そっとツバサの手を離した。
ゆっくりと顔を上げる。
薄桃色の瞳が、ツバサの焔色の右目をまっすぐ捉えた。
その瞳には、一点の迷いもなかった。
「呪いとか、どうでもいい。
“私が何を思うか”でしょ?」
夜風が吹き抜ける。
ユナの灰銀の髪がふわりと舞い、ツバサの肩をかすめた。
焔の赤と月の白が、ふたりの間で交わるように揺れる。
ツバサは何も言えなかった。
胸の奥で、固く凍りついていた何かが、じわじわと溶けていく感覚。
焔印が、静かに光を灯した。
今までのように暴れず、
ただ静かに「ここにいる」と伝えてくる。
「……お前、変わってるな」
ようやく絞り出した言葉に、ユナは小さく笑った。
「うん、よく言われる」
その笑みは、焔よりも優しくて、
月よりも、あたたかかった。
ツバサはふと、焔を灯すように胸に手を当てた。
そこにはもう、焦りも怒りもなかった。
ただひとつ――
“生きていていい”
そう言われたような温度だけが、確かに残っていた。
遠く、灰隠の見張り台で鐘が鳴る。
夜の更けていく音。
この時、ツバサはまだ知らない。
自分の焔が、この先どれほど深い“闇”に触れていくのかを。
そして、その闇の中で――
今隣に座る少女の言葉だけが、どれほどの“灯”になるのかを。
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