焔影の子ら― 無印の少年、禁忌の焔で世界を焦がす ―
yoU
第1話 落ちこぼれの少年
数日前
灰のように乾いた風が、里を吹き抜けていた。
ここ〈灰隠(はいがくれ)〉は、かつて封印戦争の最前線だった土地。
いまでは小さな国の片隅にひっそりと存在し、
“印を継がぬ者”が集まる忘れられた里だった。
少年が崩れた石段の上に腰を下ろし、
訓練場の方角をぼんやりと眺めていた。
ツバサは、まだ細身で背丈も周囲より少し低い。
しかしその身体には、静かに燃えるような“芯の強さ”が宿っていた。
髪は黒く、やや長めで、無造作に額へとかかる柔らかい癖毛。
太陽に照らされると、黒の中に微かな墨色の艶が浮かぶ。
風に揺れるたび、まだ少年らしいあどけなさがこぼれるのに――
時々、瞳だけが“大人びた影”を帯びる。
瞳は深い黒。
けれど光を受ける角度によっては、
氷のように冷たくも、焔のように熱くも見える不思議な眼差し。
頬や顎のラインはまだ幼さが残るが、
眉の形は鋭く、意志の強さを静かに物語っている。
子どもたちが印を結び、光を生む。
赤、青、金色の光が次々と弾け、歓声が上がる。
――羨ましい、なんて思いたくなかった。
だけど、目を逸らせなかった。
ツバサは両の手を胸の前で組む。
指先が、震えている。
記憶を掘り返すように、何度も印の形を思い出す。
火印の初歩、「焔の一指」。
心を整え、指に意志を込める。
だが、何も起きない。
風が吹き抜け、砂だけが舞い上がる。
「やっぱり、無理か……」
呟いた声は、風に消えた。
訓練場からは笑い声が聞こえる。
「無印のくせに真似してる」
「英雄の息子なのに情けない」
そんな言葉も、いつものように混ざっていた。
ツバサの両親は、封印戦争で名を残した英雄だった。
だが、ツバサが印を結べないまま十年が経つと、
人々は言葉を変えた。――「英雄の呪いの子」と。
夜。
ツバサは家の中の古びた机を開け、
焦げついた護符を取り出した。
それは、母が最後に残したもの。
「どうして、俺だけ……」
月の光が差し込む。
護符の焦げ跡に、ほんのわずかな赤い光が宿った。
ツバサは気づかない。
胸の奥で、何かが静かに蠢いていた。
――孤独。
――怒りでも、悲しみでもない。
ただ、「誰にも必要とされない」という、
冷たい感情が、彼の中で燃えはじめた。
次の瞬間、空気が軋んだ。
ツバサの足元に赤い紋様が浮かび上がる。
焦げた匂い。焼けるような熱。
「な、んだ……これ……!」
皮膚の下で、紅蓮の紋様が走る。
痛みと共に、視界が真っ白に弾けた。
――ドンッ。
爆風。
家が燃え、夜空が裂ける。
炎の中で、ツバサは立ち尽くしていた。
背中に刻まれた紋章が、まるで呼吸をしているように脈動している。
遠くで人の声がした。
「呪印だ!」「また災いが起きた!」
逃げ惑う人々。
ツバサはただ、拳を握った。
「俺は……違う。こんな力、欲しかったわけじゃ……!」
けれど、その焔は止まらない。
屋根を焼き、空を焦がし、風さえ赤く染めた。
紅蓮の火が、夜空を裂いた。
その中心で、少年はひとり、立ち尽くしていた。
――この日、〈焔継(けんえい)〉と呼ばれる伝説が、静かに始まった。
「こらぁーッ! また万引きしやがって! 待てコラ、ツバサぁぁぁ!!」
商人の怒号が、石畳の通りを突き抜けた。
昼の灰隠はいつも通りの喧騒に包まれている。
人々はその騒ぎを笑いながら見送る。
「ははっ、またか」「あのガキ、ほんと懲りねぇな」
ツバサは笑っていた。
息を切らしながら、屋台の裏をすり抜け、
手にした小さな焼き菓子をかじる。
「えへへ……あんな所に置いとくのが悪いんだよー」
わざと声に出して、通りの人たちに聞こえるように言う。
誰かが、自分を見て、怒ってくれる。
誰かが、名前を呼んでくれる。
それだけで、胸の奥が少しだけ温かかった。
けれど、その笑顔の奥に、ほんの一瞬の影が差した。
ツバサは誰もいない路地裏に入り込み、
背中を壁に預けて息を吐く。
「……俺、なにやってんだろ」
口にした菓子はもう冷たく、
噛みしめても、何の味もしなかった。
遠くでは子どもたちの歓声が聞こえる。
印を練習しているのだろう。
指を組み、光を生む音。
それが、ツバサには一番遠い世界の音だった。
「俺だって……」
そんなツバサの前に――
「こらーーーーーッ!!」
腹の底から響く声。
ツバサは顔をしかめて振り向いた。
「げっ……先生」
路地の入口に立っていたのは、印術アカデミーの教官・ハガネ先生。
五十を超えてなお筋骨隆々、怒ると里じゅうの子どもが逃げ出す男だ。
だが、ツバサが唯一逆らえない相手でもあった。
「返してきなさい、ツバサ!」
「ちぇっ……」
ツバサはしぶしぶポケットから菓子を取り出し、
店主に投げ返した。
怒鳴り声とため息が入り混じる。
ハガネは腕を組みながら眉をしかめる。
「お前、またくだらんことを……。印の練習はどうした?」
「どうせできないよ」
吐き捨てるような声。
その一言に、ハガネの表情が一瞬だけ曇った。
ツバサの学年は十人。印を発現できないのは、もう彼だけだった。
しばしの沈黙。
風が吹き抜け、二人の間に砂埃が舞う。
「……んあー、そうだ」
ハガネが大きく伸びをして、
いつもの怒鳴り声とは違う柔らかい声で言った。
「今晩、一緒に飯でも食うか? たまにはな」
ツバサは驚いたように顔を上げた。
「え、なんで?」
「お前の母さんと親しかったんだ。
たまに、お前と話したくなるんだよ」
そう言って、ハガネは少し照れくさそうに頭を掻いた。
ツバサは視線をそらし、
ほんの少し口元をゆるめる。
「……別に、ヒマだから行ってやるよ」
「ははっ、生意気言いやがって」
笑い声が交わる。
それは、ツバサが久しぶりに感じた“あたたかい音”だった。
夜。
薄暗い灯りの下、ハガネ先生の家のちゃぶ台には、
ぐつぐつと湯気を上げる鍋が置かれていた。
だしの香りが部屋いっぱいに広がる。
「ほら、今日の晩飯はおでんだ」
ハガネが大きな声で言いながら、
木杓子で大根をすくい上げる。
「……あっついのに、おでんなんか作りやがって」
ツバサは顔をしかめながらも、
じっとその湯気に目を奪われていた。
「うるせぇ。いくつになってもみんなおでんは好きなんだよ。黙って食え」
「はいはい……いただきまーす」
ツバサは箸を取り、
串に刺さった玉子をひと口。
「あちっ!!」
舌を押さえながら跳ねるツバサを見て、
ハガネが喉の奥で笑った。
「ふふっ」
「……なんだよ」
「いやな、お前でもそんな顔をするんだなと思ってな。
里の問題児も、たまには子どもらしいじゃねぇか」
「うるせぇ。黙って食え」
そう言いながら、ツバサは顔をそむける。
けれど、頬がほんの少しだけ赤い。
ハガネは湯気越しに、その横顔を静かに見つめた。
この少年の瞳の奥に、いつも燃えるような光があることを、
彼だけは知っていた。
――この子は、本当に“無印”なのか?
そんな思いが、胸の奥をかすめる。
けれど、それを口にすることはなかった。
「……おい、ツバサ。おでんの大根、もうひとつあるぞ」
「いらねぇ。もう舌やけどした」
「ははっ、バカだなお前は」
二人の笑い声が、静かな夜に溶けていった。
その夜の焔――
まるで、この小さな食卓の湯気のように、
まだ穏やかに、けれど確かに、ツバサの胸の奥で揺らめいていた。
「だけどなぁ……」
湯気の立つおでん鍋を見つめながら、ハガネがぼそりと言った。
「なんでお前は、あんな悪さばっかりするんだ?」
その声は、怒鳴り声じゃなかった。
まるで、“わかっている”者の声。
ツバサは箸を止め、俯いたまま答える。
「……さぁ、知らね」
小さく笑って、味の抜けた大根を口に放り込む。
笑いながら、目は笑っていない。
ハガネはため息をつき、
湯気の向こうからツバサをじっと見つめた。
「ほんとは、誰かに見てほしいだけなんじゃねぇのか?」
その言葉に、ツバサの指先が一瞬だけ止まった。
けれど、すぐにまた無理やり笑ってみせる。
「見てほしいなら、もっとマシなことするよ。
……俺なんか見たって、つまんねぇだろ」
湯気がゆらいで、二人の間を曖昧にする。
その沈黙の中で、ハガネは小さく笑った。
「……バカ野郎」
「へへ、よく言われる」
「明日はアカデミーの卒業試験だ。準備は大丈夫か?」
おでん鍋の湯気越しに、ハガネが言った。
その声はいつもより静かだった。
「準備なんて必要ねぇよ。どうせできないんだから」
ツバサは箸を置き、
うつむいたままぼそりと呟く。
その言葉には、笑いも怒りもなかった。
ただ、諦めだけが滲んでいた。
ハガネはしばらく黙っていたが、
ふと自分の右手を見せた。
「……まぁ、そんなに悲観するな。
お前も、本当は欲しいんだろ?」
彼の指には、黒鉄の指輪――〈印輪(いんりん)〉がはまっていた。
内側に刻まれた古代文字が、灯の明かりを受けて微かに光る。
「印輪……」
ツバサはそれをじっと見つめる。
何度も、夢で見た。
自分の指にもあの光が宿る光景を。
だけど、それはいつも夢のまま終わった。
「どうせ合格できないんだからよ、
つけさせてくれよ、それ!」
笑いながら言ったその声は、どこか必死だった。
ハガネは目を細め、指輪を外す。
ツバサの目が、一瞬だけ希望の光を宿す。
だが――ハガネはそれをツバサの額に軽くコツンと当てた。
「バカもん。これは“立派な印術師”になった者だけがもらえるんだ」
そう言って、またゆっくりと指に戻す。
ツバサは小さく口を尖らせた。
「……けっ。どうせ俺には無理だ」
「お前が決めるな。
印ってのは“与えられるもん”じゃねぇ。
“掴みにいくもん”だ。」
そして――卒業試験当日、それは起こった。
朝の灰隠は、いつもよりざわめいていた。
訓練場には、十人の生徒と多くの見物人。
印術アカデミーの卒業試験は、里の行事でもある。
新たな印術師が生まれる瞬間を、誰もが見たがっていた。
ツバサは列のいちばん後ろに立っていた。
視線が痛い。
誰も何も言わないが、
――“どうせ、あいつは失敗する”
という空気が漂っていた。
「受験者、ツバサ」
呼ばれた名前が、やけに遠く聞こえる。
ツバサは深呼吸して前に出た。
膝が少し震えていた。
目の前には試験官、ハガネ。
その表情は固く、しかしどこか優しい。
「いいか。焦るな。心を整えろ」
ツバサはうなずき、両手を組んだ。
――印術〈焔の一指〉。
初歩中の初歩。
それすらできずに、彼はここまで来た。
人々の視線。
ざわめき。
胸の鼓動が、嫌なほどうるさい。
(見てろよ……今日こそ、俺だって――)
指先に意識を集中させた瞬間、
胸の奥で何かが“はじけた”。
――ドクン。
視界が歪む。
血のような熱が全身を駆け抜けた。
「ツバサ!? やめろ、力を抑えろ!」
ハガネの声が響く。
だが、遅かった。
ツバサの両腕に紅蓮の紋様が浮かび上がり、
空気が弾けるように爆ぜた。
――バチィィィンッ!
爆音と共に、地面が裂ける。
観客席の木の柵が吹き飛び、
炎が噴き上がった。
「な、なんだこれは……!?」
「印術じゃない! 暴走だ!!」
人々が悲鳴を上げ、逃げ惑う。
ハガネが印を結び、結界を張ろうとする。
だが、ツバサの焔はそれすらも飲み込んだ。
真紅の光が、彼の瞳に宿る。
その光は恐怖でも絶望でもない。
――ただ、何かを訴えるような、痛いほどの“叫び”だった。
真紅の光が、彼の瞳に宿る。
右の瞳だけが、紅蓮に染まっていた。
燃えるような焔色――だが、その奥には涙の光が滲んでいた。
その片目の輝きは、まるで“焔印”そのものが彼を覗いているかのようだった。
紅蓮の紋様がツバサの体中を走り、
その中心、胸の奥で“印”が脈動した。
「これが……俺の……印……!?」
炎が空を焦がした。
誰もが言葉を失う中、
灰隠の空だけが――燃えていた。
そして、ハガネは悟る。
その焔こそ、封印戦争で封じられた禁忌の印。
〈焔印(ほのおのしるし)〉――。
その日、灰隠の里は初めて“禁印の継承者”を目撃した。
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