やる気スイッチ(ひも式)

@sabo527

やる気スイッチ(ひも式)

  例えば映画の最中に寝ちゃったりなんかしたら、多分幻滅されるだろう。ましてやプラネタリウム。寝不足で絶叫マシーンや観覧車はクリア出来ても、その疲れも加算された状態で照明を落としたリクライニングシートはもうベッドと呼ぶより他ない。

 なのに眠れない。明日のデートが楽しみ過ぎてそうなるなんて年齢でもないはずなのに、もうずっと電気を消した部屋の中でごろごろ転がって時間だけが過ぎていく。

  諦めて照明を灯し、ベッドサイドの鏡に自分の顔を映した。 たいして見栄えもしない平凡な顔の、さほど高くもない鼻から一本、白い鼻毛が飛び出していた。 朝にはおそらく慌ててシャワーを浴び、急いで髪をセットして、それだけは入念に用意しておいた服を着たら部屋を飛び出していただろう。

 危ない、気づかないところだった。 裏面の拡大鏡でよく見ると、それは白髪というよりは光沢のある金色だった。

  指でつまんで少し引っ張って見る。 鼻穴ではなく後頭部の、頭蓋の内側が引っ張られる感覚に思わず手を止めた。 おそるおそる、もう少し強く引いてみる。 その時世界が開けた。


 頭の裏側でカチッと音がした。いや、したような気がした。目に映る部屋の景色が突然解像度を増した。開いた襖の向こうにある本棚に並ぶ背表紙のタイトルが全部読める。さらにはそれらの本の内容が、つい先刻読んだばかりのように頭の中に展開されていく。    

 テレビをつけるとコメンテーターが何やら難しそうな単語を並べていたが、彼の頭の中では帰ってから眺めるであろう娘の寝顔がチラついている。隣で相槌を打つ司会者はそのコメンテーターの銀歯が気になってしょうがない。

「なんだこれは」 僕は鏡を見直した。 そこに映る顔はまるで十歳も若返ったようにつやがあり、それどころか十年前でもそうではなかったほどに精気や色気みたいなものに溢れていた。

  再度鼻毛を慎重に引っ張ると視界の粒子が目に見えて粗くなり、僕はスイッチが切れたことを実感する。さらにゆっくりとスイッチを入れると、また覚醒した世界が目の前に広がった。

  慌てて服を着ると、深夜の街へと僕は飛び出した。

 スイッチを入れると、暗い道もどこまでもハッキリと見える。すれ違う人達の心の内が読み取れる。素行の悪そうなグループが僕の顔を見てすっと道を空ける。彼らは敵わなそうな相手を見破るセンサーを持っているのだろうか。もしケンカになっても、今の自分が誰かに負けるところは想像出来なかった。

 一通りスイッチの効果を確認すると僕は部屋へと戻り、ゆっくりと本を読んで過ごした。寝不足の心配は無いだろう。一応アラームはかけておいたが、出る時に覚醒スイッチををオンにするだけで良い。 彼女の気持ちは手に取るように読める。自信に満ち溢れた僕は自信満々で一番良い行動を取れる。そしてそれは決して外れない。高嶺の花との初デートに失敗しないように慄いていた前の僕ではない。思い通りに彼女を満足させ、虜にするだろう。


  そして今、一回目のデートで僕は彼女とホテルの一室にいた。

  隣では疲れ切った彼女が満足そうに寝息をたてている。まだ若い、艶のある頬を撫でると彼女はうっすらと瞼を開けて微笑んだ。

 それから僕の顔を小さな手で撫で上げ、そして。

  頭の裏で何かが抜ける感触があった。


 え、と小さな声を漏らしながら彼女はそれを引き抜いた。二十センチ程の糸が脳の中を滑る感覚が、脊椎を通して体中に一生分の快楽をもたらす。ホテルの天井の飾りが輝きを失い、僕は快楽の中で気を失った。


 ワンピースのスカートの裾に金色の糸が纏わり付いている。彼女はそれをはたき落とし、急いでエレベーターに乗った。タクシーを捕まえ、数分後には自分の部屋の灯りをつけた。

  あぜあんな人にあれほど惹かれたのだろう。悪い人ではないとは思っていたが、デート中の彼は酷く魅力的で、流れのまま一線を越えてしまった。 あの時、痙攣しながら体液という体液を出して悶絶する彼を見て気持ちが冷えてしまった。これ以上傍にいることも我慢出来ず、ビクビクと体を震わせる彼を置いてホテルの部屋を飛び出したのだ。

 もう忘れよう。今夜のことは。熱いシャワーを浴びて、ベッドに潜り込んだらそれで終わり。


  コンタクトを外しピアスに手を掛けた時、耳の中から飛び出す細い毛を見つけた。 それは金属光を放って頼りなげに揺れていた。

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