600秒
遊螺
送信
最悪だ。
もう死んだ。
俺はたった今、地獄の第一章を味わっている。
今しがた、彼女と間違えて、部長に「だいちゅきでちゅ♡」というメッセージを送信してしまったのだ。
俺は今、自分のデスクで何事もなかったようにPC画面を凝視している。何の画面を開いているのかさえ、判別できない状態で。
部長は50代既婚男性で、「えへへ、間違えました~」なんて冗談が通じる相手ではない。鬼とまでは言わないが、仕事にはとかく厳しい人だ。
そして今、大事な取引先との会議中で、隣の会議室に居る。
会議終了の予定時刻は14:30。
つまり、あと10分で部長はあの会議室から出てくる。
その後、メッセージアプリを開かれた時点で俺の人生は終了。
落ち着いて考えろ。
今はまだ大丈夫だ。
社運のかかった重要な会議中に、ポケットのスマホを見るなんて100%ありえない。
つまり、この10分――そう600秒の間に、俺は部長のスマホから確実にメッセージを消去する方法を構築しなければならないのだ。
まず思いついたプランは遠隔操作だ。
部長のアカウントにログインする。どうやって? パスワードを知らない。二段階認証ならばなおさら無理だ。
アプリのサーバーをハッキングする。時間も技術もない。
携帯電波を妨害する。ジャミング装置。そんなもの持っていない!
だったらスマホ自体をネットワークから切断させる。会社のWi-Fiルーターを落とす。ブレーカーを落とせば全館停電。でもモバイルデータは生きたままじゃないか!
部長のスマホを壊す。EMPみたいなので。そんなものがどこにある!
残り512秒。
次のプランだ。
古典的だが、最も有効なのは上着にコーヒーをぶっかける。その隙にポケットからスマホを抜き取る。ダメだ、このオフィスは飲食禁止で、誰も飲み物を持ち込んでいない。不自然すぎる。
だったら飲み物以外、そう、コピー用紙でも何でもいい、盛大にぶちまける。無理だ。デジタル化が進みすぎて物が全然ない!
部長の席の真上の空調噴出口を操作して、暖房MAXにするか? 暑くて上着を脱いだ隙に――いやその前にチェックされれば意味がない!
残り404秒。
そうだ、物理的にアプリを確認できなくさせればいい。そう、たとえば俺自身が部長に電話をかけまくる。俺のターンが終わっても取引先や知人を名乗って次々と……ダメだ! 寿命がほんの少し伸びるだけだ。
刺客を差し向ける。ハニートラップ! 経理の浅野さんなんてどうだ? 若くて美人だし、彼女を嫌いな男なんていない。だが浅野さんになんて頼む? 理由を聞かれれば、それこそリスクのほうが高い!
くそ! なんなんだこのオフィスは! 使えるモノが全然ないじゃないか!
残り328秒。
そうだ、担当部署に頼んで緊急避難訓練のアラームを鳴らしてもらおう。後で間違いだったと謝ればいい。チェックどころじゃなくなって、その隙に奪えるかもしれない。担当部署はどこだっけ……部長の兼任部署じゃないか! なんで二つも掛け持ちしてるんだよあの人は!
他にも考えるんだ。もっと確実で、画期的な方法を。いや画期的なだけじゃダメだ、独創的でなければいけない。これはゲームじゃないんだ。まさしく俺の生死がかかった一大事なんだ。
考えろ考えろ考えろ。
残り229秒。
会議室から出てきた部長の前で、俺がぶっ倒れるってのはどうだ? 「自分で救急車呼ぶから、携帯貸じでぐだざぁい」……無理がありすぎる!
いっそポケットから盗むか。スリの技術を学んでないぞ、ちくしょう!
催眠術にかける。「スマホを見てはいけな~い」――セミナーに通ってない!
小動物を放つ。ハムスター、鳩、どこで手に入れる!
念力でスマホを破壊する。画面を割る。瞬間移動。世界を止める。時間を停止させる。タイムマシンで10分前に戻る。
残り185秒。
神に祈る――「どうか、部長がスマホを見ませんように」
ダメだ……独創的であればいいというものではない。
もう、こうなったら辞表を書くか……? 実際にはそんなもの書いてる暇もないのだが。
このまま澄ました顔で会社を出て、家に帰り、翌日から出社しないというだけだ。それがある意味で一番、波風を立てずに済む方法かもしれない。部長も当事者だけに追及できず、誰にも真実を話さず、すんなり退職を認めるだろう。
だがそうなれば、俺の心はどうなる? 恥辱の刻印は一生消えまい。それだけじゃない。トラウマだかフラッシュバックだかに化けて夜も眠れず、死ぬまで苦しみ続ける羽目になるだろう。
こんな、なんでもない日の、たった一度の過ちで――。
残り127秒。
俺はね~え、来世では僧侶になってるんだ~。地球は飽きたから、どこか別の星で!
お花から生まれて、罪人たちの回心のために身を粉にして尽力するの。
そしてこんなちっぽけな銀河とはオサラバして、前人未到の神の領域に到達する。もう二度と戻らない。
そう、ここでの人生はちょっとした旅行だった。物見遊山。一瞬遊びに来ただけ。25年の人生なんて、宇宙138億年から見れば、瞬きよりも短いんだ。
そう考えれば、今日という人生最後の日は、まさに無敵の人じゃないか! 好きな事をしよう!!
残り63秒。
うーん、俺の好きな事って、何だったっけ?
ゲーム、料理、昼寝、彼女……。
――彼女!
そうだ。俺には大事な彼女がいた。誤爆ショックで完全に忘れていた。ごめん、美咲……!
彼女を残したまま神にはなれない。
フッ……。
これも人生……か。
残り34秒。
奇跡の打開策なんて降りてこない。
もう腹をくくろう。
現実的に考えて、残された選択肢はふたつ。
A:素直に謝る。
B:退職する。
Aの場合。
部長が笑って許してくれる、100点。怒られる、50点。微妙な顔をされる、0点。
Bの場合。
謝って帰る、50点。今すぐ帰る、0点。
俺がここに居続けられる閾値は100点以外ない。つまり、笑って許してくれる以外は全てBだ。
だがあの部長が笑って許してくれるとは思えない。
でも、黙って帰るよりは、いささかマシだ。
最初からこうすればよかったんだ。
何を小細工しようともがいてたんだ、俺は。
バカだな。
残り1秒。
――ピコン。
俺のスマホが鳴った?
まさかの部長からの返信。
「……妻には内緒で頼む」
帰ろう。
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