史月アズマの怪奇帳

金山 海花

間話

 カタカタ、キーボードが音を立てる。


『でも、俺はやだよ』


 パソコンの中で主人公がそう言った。


『俺はお前に生きていてほしいよ』


 パソコンの中で主人公にそう言われたヒロインは、悲しそうに笑った。


 ぽこん、とスマホの通知が鳴った。家族で共有しているスケジュール帳に予定が追加されたようだった。家族で共有であることに、大した理由はない。親元を離れて高校に通うと決めた自身が、少しでも家族のつながりを感じていたくてねだったのだ。


『五月二十四日 八海のカウンセリング』


 咄嗟にスマホの電源を切る。別に悪いことじゃないのに、吐き気が込み上げた。いいことだ。いいことのはずだ。なのに、


 胸に広がるどす黒い感情を振り払うようにパソコンに向かう。


『でも、こんな世界で生きていたって、意味がないでしょう?』

『生きてみれば、いいこともあるかもしれないじゃないか』

『そうかしら? だって、誰も助けてくれなかった。誰も私のことわかってくれなかったのよ』


 どす黒い感情は広がっていく。やがてキーボードを打つ指も滑らかになっていった。


『じゃあ、今、僕が助けるよ』

『あなたに助けてもらったって嬉しくないわ。だって、あなたに私の苦しさはわからないもの。幸せ者のあなたには』


 どき、と心臓が跳ねた。けれど動き出した指は止まらない。


『そんなだから』


 パソコンの文字列の中で、主人公が冷たい目をした。


『そんなだから、みんな君のことを見捨てるんじゃないか』


 キーボードを打つ手が止まる。これは本当に自分が打った文字なのか、とまじまじと文字列を見る。どす黒い感情はすっといなくなり、それよりも強い後ろめたさが生まれた。


 これだから、感情が昂った時に書く文章は嫌いだ。自分の一番醜い一面を突きつけられている感覚になる。


 もういいかと思い、削除ボタンを押した。次の日にはファイルごと削除した自分を恨むだろうけれど、今は見ていたくなかった。


 もう今日は辞めてしまおうか。


 その時、パソコンの右上に通知が表示された。件の四人で使っている通話ソフトに新たなコメントが追加されたようだった。


『今回の事件報告書』


 そんな仰々しいタイトルのファイルが共有される。まあ、そもそもグループ名のところから『捜査会議チャット』なんていう大袈裟な名前がついているのだから、今更なのかもしれない。


 ふと考えて、手帳を開いた。この集まりの言い出しっぺである彼女の言葉を借りるなら、捜査手帳。『捜査』の時に自分がひたすら取っていたメモが残されている。いわゆる情報や証拠品のメモだけではなく、ただただ自分の思考を整理するために書き殴ったものもある。我ながら見づらいメモだ。


 今回、得難い体験をしたことは事実で、『彼』の存在が自身の中に確かな楔を残したことは認めざるを得ない。


 手帳を読み返していると、当時の感覚が蘇ってきた。


 ある男の苦悩。その苦悩が、嫌悪が起こした哀しい事件。それでも、彼は確かに生きていた。


 チャットに新しいコメントが追加された。


『推理レポートもよろしく!』

「……は」

『なんで』

『いいでしょ、ぽくて』

『いいじゃん! かっこいい』

『確かに、読み返せていいかもね』


 口裏を合わせたかのようなコメントが次々と追加されてあっけに取られる。ついで、ため息が出た。


 別に、やることはない。ついさっき、なくなった。急ぐような課題はないし、この悪ふざけに付き合うのも悪くない。


 そう思って史月ふみつきアズマは新しく文書ファイルを開いた。手帳を開き、パソコンの横に置いた。冒頭に「推理レポート一」と入力する。けれど、あまりにも簡素すぎる表題は少し味気なかった。ただ、格好をつけた事件名をつけられるようなセンスはない。少しの間考えた後、ふと、机の隅に積まれた本が目に入った。表題を見たとき、『彼』の言葉が頭に蘇る。


『俺は、いっそ俺が化け物ならいいと思ったんだ』


 アズマは少しの間意味もなく、入力されない程度に軽くキーボードを叩いた後、意を結したように推理レポートに表題を入れた。



推理レポート一 「人間失格」

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