第8話 王悲《おうひ》
戦場から王都への帰路の途中、馬車の車輪が、ひときわ大きく石を踏み越えた。
がくん、と車体が揺れる。レイシェントの頭が、預けていた壁からずり落ちかけ、またもたれ直した。背中は板のように固まり、肩から腰にかけての筋肉が、悲鳴とも呻きともつかぬ抗議を続けている。
(……まだ、動けているのが不思議だな)
ぼんやりとそんなことを考える余裕があるあたり、まだ完全には限界を超えていないのかもしれない。
ベックに殴られ、兵たちに殴打され、幽閉塔の冷たい石の床に転がされて眠り、ろくに掴まるところのないワイバーンの背で長距離を飛び、神経をすり減らしながら王国軍全軍に指示を飛ばし、挙げ句の果てに神剣に雷撃をぶち込まれ、魔将と命のやり取りまでした。
冷静に列挙してみると、どこか他人事めいてくる。
「……」
目蓋を閉じたまま、レイシェントは浅く息を吐いた。頭を壁に預けた姿勢から一歩も動けない。意識を手放しさえすれば、そのまま泥の底まで沈んでいきそうだ。
真正面。向かいの座席には、アルスローラが腰掛けている。
彼女もまた、限界をとうに超えていた。
豊穣神への祈祷で心身を削られ、召喚直後にはレイシェントの暴言を浴び、終わりの見えない会議に付き合わされ、ようやくの入浴と就寝の後には早馬に叩き起こされ、レイシェントの治療に少なくない魔力を費やし、慣れない戦場行軍で日が暮れるまで歩かされ、朝食をゆっくり食べる暇もないまま開戦。魔力が枯渇し、立つことも叶わなくなったところまで追い込まれた。
今は毛布にくるまれ、馬車の座席に身体を預けている。だがその喉からは、声らしい声がほとんど出ない。魔力を使い果たした者特有の、ひどい倦怠と虚脱が、彼女の全身を蝕んでいた。
それでも。
ずる、と車輪がぬかるみを踏み抜いた瞬間、二人の身体が同じ方向に揺れた。わずかに、視線がぶつかる。
何も言葉は交わせない。
言葉を紡ぐだけの力が、もう残っていない。
それでも──
(生きて……帰れたな)
(……生きて、戻ってこられた……)
ただ、その事実だけが、静かに共有された。
レイシェントは、かすかに首を動かして目を閉じる。アルスローラも、乾ききった唇をわずかに引き結び、視線を落とした。
互いが互いを、今まで以上に強く意識しているのを感じる。
召喚されたばかりの、あまりにも能力値の低い初期状態から、よくもまああれほど戦い抜いたものだ、とレイシェントは心の中で舌を巻く。そもそも、この世界の戦場に放り込まれたこと自体が理不尽なのに。
王族が人に詫びることが、どれほど難しいか。端くれでしかない自分でも身に染みて知っているのに——そう思っていた彼女の胸中も、レイシェントには、はっきりとは読めない。それでも、先ほど彼が頭を下げた時の、アルスローラの目の揺らぎだけは覚えていた。
(あの状況で、あれだけのことをしておいて、最後には俺に引き継いで……)
あのままでは、戦いの半ばで力尽きてしまうところだったとはいえ、己の役目を中途で他者に引き渡すような真似は、彼女にとって耐え難い屈辱だったに違いない。
それでもなお、手を放し、託してくれた。
(……そりゃあ、敬意ぐらい、抱かない訳にはいかんだろ)
馬車の外では、兵たちの声が遠くに聞こえる。行軍の余韻と興奮、脱力と安堵が入り混じった、ざわめき。
二人を乗せた馬車は、そのざわめきの中を抜け、ゆっくりと王都の中心へと向かっていく。
◇ ◇ ◇
王城の門が見えた頃には、空の端がようやく白み始めていた。
本来ならば、真っ先に寝台へと飛び込みたいところだ。レイシェントの身体も、アルスローラの身体も、限界を大きく踏み越えている。人としてまともな扱いをするのなら、一刻も早く休ませるべきだ。
だが。
「陛下。アルスローラ殿。お疲れのところ申し訳ありませんが、すぐにお越し頂きたいとのことで……」
迎えにきた従者が、申し訳なさそうに頭を下げる。
視線の先には、城内の一室。その扉の向こうで灯りが赤々と燃えている。徹夜の会議が続いていたのだろう。重臣たちの息は荒く、瞼は重そうだ。
「……休む間も、なしって訳か」
レイシェントは皮肉めいた笑みとも、ただの疲労からくる歪みともつかない表情で、鼻を鳴らした。
アルスローラは、壁に手をつきながらゆっくりと立ち上がる。ふらついたところを侍女に支えられ、慎重に歩を進めた。声は出ない。それでも、その瞳には意志が宿っている。
(ここで席を外すわけには、いかない……)
魔王軍との戦いは、終わってなどいない。今回の戦は、ただの第一波に過ぎないのだ。これからどうするか。この国がどう動くか。その話をする場から、自分だけが抜けるわけにはいかなかった。
扉が開かれる。
重鎮たち、各騎士団長、神官長——王国の中枢たる面々が、長卓の周囲を埋めていた。その視線が一斉に、戸口の二人へと注がれる。
「おお……」
誰かが息を呑んだ。
血と汗と泥にまみれたままの王と召喚者。勝利の報告を携えながらも、立っているのがやっとの姿。その存在そのものが、戦場から持ち帰られた現実の重さを物語っている。
そんな中、先に口を開いたのは——
「誤解されぬよう、先に釘を刺しておこう」
澄んだ声が、会議室に響いた。
長卓の中央に安置された、一本の剣。その柄に埋め込まれた宝玉が、ぼうっと青白く輝く。神剣オルドゥスの声だ。
「私はレイシェントを認めたわけではない」
冷水を浴びせるような宣言に、場がざわめく。
「感情の高ぶり故か、一時的に基準を満たしたために——仮初に、私が許容しただけだ。彼が私の基準を満たし続けなければ、いつでも私はこの男を拒絶する」
誇り高き神剣としては、そう簡単に折れるわけにはいかないのだろう。素直に「認めた」と言ってしまうには、あまりにも長く、重い年月を背負っている。
それに——
(感情で力が跳ね上がるなど、まるで「あやつ」のようではないか)
心の奥底で、誰にも聞こえぬ吐息を漏らす。基準を満たすか否かは、本来もっと厳密なものだ。心の揺れなど、本来ならば力の尺度に関わるべきではない。そう思っているからこそ、なおさら複雑だった。
重臣たちのざわめきが強まる。
「では、先ほどの雷撃は——」
「神剣に認められたわけではないのか?」
「やはりレイシェント陛下では……」
憶測と不安が瞬く間に広がりかけたところで、レイシェントがゆっくりと口を開いた。
「……まあ、俺もそう思ってる」
掠れた声。だが、その中に変な虚勢はない。
「ありゃ“たまたま”だ。己を誇る気はない」
一瞬、場の空気が揺れた。
神剣の言葉を否定するのでも、言い訳をするのでもない。淡々と、そう言い切ってしまったことへの驚きだった。
(ここで、己の力を事さらに強調してみせれば……)
レイシェントは、頭の奥底で冷ややかに算盤を弾いている。
(神剣を振るえる新しい王として持ち上げられるかもしれん。だが同時に、反発も一気に煮えたぎる。孤立して、詰みかねない)
この国には、王家の血そのものにまつわる疑念が、燻ぶり続けている。彼自身に突きつけられてきた、あの忌々しい囁きは、まだ記憶の底でうずくまっている。
そんな状況で、神剣の力を笠に着ることだけはしたくなかった。
それに——
(俺が使えるからと言って、アルスローラが要らない、なんて話にされてたまるか)
自分がいるから、彼女を召喚元に送り返してしまおう。そんな話が出ることだけは、絶対に避けたい。
(……“望んでいない”じゃ弱いな。俺が望もうが望むまいが、周りが勝手に決めかねない。だったら)
望みを、言葉にしなければならない。言葉にし、認めさせなければならない。
「だからこそ、一人でも味方が必要だ」
レイシェントは顔を上げ、長卓をぐるりと見渡した。
「俺がいればいいからアルスローラ殿を送り返す?……そんなこと、するものか」
ぴたりと、ざわめきが止む。
アルスローラは、疲労に沈みかけていた表情をほんの僅かに緩めた。喉から声は出ない。出ないが、胸の奥で何かが小さく鳴った気がした。
神剣も、反論はしない。
(……ふん)
内心では、レイシェントが自分の言葉を利用し、アルスローラを守ろうとしているのを、薄々察していた。あの時、「仮初」と口にした表現を、彼がどう料理するか。それを見届ける義務があるような気もしている。
(「あやつ」に似たところばかり、ますます増えていく……)
苛立ちと、どこか拭えない懐かしさの混じった感情が、刃の奥で微かに揺れた。
沈黙を破ったのは、神官長だった。
「しかし……次代以降は、どうなさるおつもりですかな」
老いた声だが、その内容は鋭かった。
「レイシェント王が、確実に資格を満たしたとは言い難い。今回扱えたのは、あくまでも“例外”です。資格が血筋として継承される保証は、どこにもない」
神官長は、静かに続ける。
「今回の魔王の復活を乗り越えたところで、百年後にはまた復活する。不安定なレイシェント王の血筋で、次を凌げるのか——その不安は残ります」
その言葉に、場がざわめいた。
誰もが、心のどこかで考えていたことだ。だが、口には出してこなかったことでもある。
「……」
空気が、わずかに変わる。
禁句に触れた時の、あの粘つくような沈黙。レイシェントの“血”について言及することは、この場にいる者たちにとっても、慎重を要する話題だった。
その空気を、あえて断ち切ったのは——
「ならば」
ばさり、と書類を捲る音がした。
死人のように生気の欠けた顔で知られる男——グロック宰相が、ゆっくりと顔を上げる。目の下の隈は濃く、頬はこけているが、その眼光だけは妙に冴えていた。
「ならば——王がアルスローラ殿とご結婚なさればよいのでは?」
さらりと、しかし爆弾のような一言を投げ込む。
「!」
「なんだと……?」
「し、宰相殿、今なんと——」
長卓の両側で、重臣たちが一斉にざわついた。
アルスローラは、一瞬呼吸が止まるのを感じた。胸の内側が、きゅっと縮む。驚きなのか、恐れなのか、自分でも判然としない。
グロックは、淡々と続ける。
「それならば、次代にも確実に資格は受け継がれましょう。それこそが、この国の安寧をもたらすのではありませんか?」
一拍。
すぐさま、反発の声が上がる。
「召喚者と結婚など、前例がない!」
「国が異界の血に振り回されることになりましょう!」
「妃には、然るべき血筋の者を迎えるべきです!」
やれ家格がどうだ、やれ諸侯の均衡がどうだと、さまざまな言葉が飛び交う。緊張と疲労で張り詰めていた空気が、一気に熱を帯びた。
だが、その喧騒を——
「黙れ」
グロック宰相の一喝が、雷鳴のように打ち砕いた。
死人顔のまま。だが、その声そのものは驚くほど大きく、会議室中に響き渡る。
「今この国に必要なのは、“安定”と“希望”だ」
静寂が落ちる。
「レイシェント王に資格が満ちたのは、誰のおかげか。アルスローラ殿のおかげだろう。それならば、未来も二人で築けばよい」
淡々とした口調。しかし、そこに込められた確信は揺るがない。
グロックは、重臣たちを順々に見渡しながら、さらに言葉を重ねた。
「それに——百五十年前の傑物妃の後を継いだ王妃が、後継としてふさわしくあろうと努力を重ねすぎ、心を病んで以来……妃に多くを望み過ぎてはならぬ、という不文律がこの国の歴史には刻まれているはずだ」
傑物妃。
その名を口にした瞬間、何人かがわずかに身じろぎした。
病がちな夫を支え、国政、外交、軍事——そのどれにも深く関わり、王国中興の祖とまで呼ばれた伝説の王妃。説話では自ら軍を率い、自国に幾多の勝利をもたらしたとまで語られるが、さすがにそこまでは誇張だろう。実際には、前線に赴き、弱気な諸将を叱咤したところまでが史実とされている。
その傑物妃の息子と結婚し、義理の娘となった次代の王妃は——
「傑物妃に負けぬくらいになろうと、頑張り過ぎた」
グロックの声は、どこか遠くのものを思い出すようだった。
「国のことを、民のことを、夫のことを。全てにおいて“傑物妃のように”あろうとした。やがて心を病んでしまった。夫たる王は、自分が彼女から笑顔を奪ってしまったと、心から嘆いたと伝わっております」
会議室の空気が、重く沈んでいく。
歴史書の中の話。ただの逸話、ただの教訓として切り捨てるには、あまりにも生々しい痛みを孕んだ、実在の悲劇。
「それゆえに——」
グロックは、ゆっくりと息を吸い込む。
「王妃に我らが望むのは、ただ一つ。国王陛下を愛し、心を支えて頂くことのみ。それ以外の何が必要だというのか」
その言葉に、誰も即座に反論することができなかった。
異界の召喚者であることも。血筋がどうだという話も。資格がどうこうという議論も。
「王妃に、全てを背負わせるな」
その、揺るぎない一点に、全てが集約されてしまったからだ。
反対の声は、一気に勢いを失った。
誰かが口を開きかけては閉じ、別の誰かが咳払いをしてごまかす。先ほどまでの熱は嘘のように引いていき、代わりに重たく湿った沈黙が会議室を満たしていく。
グロック宰相は、何事もなかったかのように口を閉ざし、再び死人のような顔で静かに席に身を沈めた。
アルスローラは、その横顔を見つめながら、胸の奥で小さく息を呑んでいた。
(……この国の人たちは、そんな歴史も抱えて生きているんですね)
レイシェントは、ただ黙って拳を握りしめる。自分の意志とは別のところで、自分の今後が、彼女の今後が、形を与えられようとしている。その現実に対する苛立ちと——
同時に、それを利用しなければ守れないものがある、という冷厳な認識が、彼の胸の内でせめぎ合っていた。
やがて——
会議室には、宰相とはまた別の声が静かに響き始めることになる。
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