君がいたから僕がいる
茶伝
序章 君がいた
大学に入ってひとり暮らしを始めてから、ようやく静かな時間というものを手に入れた気がする。けれど、静かすぎる部屋は、ときどきやけに残酷だ。ものを考える余裕を与える分、考えなくていいことまで思い出させてくる。
いま俺の視線の先にあるのは、机の上に置いた一台のスマホ。淡い光を反射しながらじっと俺を見返してくる。
――澪のスマホだ。
澪の両親から手紙が来たのは、大学の授業を終えて部屋に戻った日のことだった。段ボールの箱と一緒に届いた短いメッセージ。「遺品です。あなたに渡すようにと言われました」。その一言を読んだ瞬間、胸の奥にある何かが無音で崩れ落ちた。
澪がいなくなった実感なんて、そんな簡単に湧くわけがない。人が死んだ、という言葉は知っていても、意味が理解できるとは限らない。ましてや、それが澪であるのならなおさらだ。
箱を開ける決心がつくまで二日かかった。けれど開けてみれば、そこに入っていたのは、写真でもアクセサリーでもなく、ただスマホ一台だけ。
まるで「わたしはこれで十分だよ」とでも言うみたいに。
俺は深く息を吸い、電源ボタンを押した。画面が光り、数字入力の鍵盤が現れる。パスワードは……そのカバーに挟まっていた写真を覚えていたからすぐにわかった。俺と澪が初めて遊びに行った日の数字だろうと。
あの日のことを覚えているのは、俺だけじゃなかったんだ。
指が震えた。その四桁をゆっくりと押す。
そのとき思い出した。
澪はよく言っていた口癖を。
――人って案外簡単に死ぬんだよ。
冗談とも本気ともつかない言い方で、唐突に。俺はそのたびに曖昧に笑ってごまかした。そんなわけない、といつもその口癖を聞くたびに思っていたが、それが現実になった。
パスコードが通ると、画面がふっと明るくなり、澪の使っていたホーム画面が現れた。そこに並ぶアプリのひとつひとつが、俺の知らない澪の生活を静かに示している。
だけど、その中にひとつだけ、強烈に目を引くものがあった。
――メモアプリ。
まるで俺を誘うかのように、他のアイコンより少しだけ右に寄っていた。そんなはずはないのに、そこにだけ意図が溢れているような気がして、しばらく指を伸ばせずにいた。
「……開けていいのか、俺が」
澪のプライベートをのぞくことになる。けれど、遺品としてここにある以上、きっと見てもいいのだろう。いや、むしろ「見てほしい」と託された可能性だってある。そんなことを考えてしまう自分が、少し滑稽だった。
意を決してタップすると、メモの一覧が表示された。いくつもの短いメモが並んでいる。買い物リスト、授業の注意点、思いついた言葉。どれも高校時代の澪のままだ。生活感があって、普通で、優しくて。
目頭がぐっと熱くなる。
スクロールしていくうちに、ひとつだけタイトルもない無名のメモがあった。日付は――亡くなる三日前。
胸の鼓動が跳ね上がる。いやな予感と、知りたいという気持ちが混ざり合って、手のひらが汗ばんだ。
震える指でそのメモを開くと、小説のような数行の文章が浮かび上がる。
そして最後はこう締められていた。
――本当はね、春紀くんが好きでした。
呼吸が止まった。
その文字はあまりにも簡潔で、あまりにも澪のままで、どうしようもなく俺を突き刺した。
好きでした。
過去形だ。
もう取り戻せない時間が、たった五文字で突きつけられる。
メモの続きを読もうとしたが、目が滲んで文字がゆがんだ。手の甲で拭っても、涙はしつこく零れ続ける。
こんなメモを残すくらいなら、どうしてもっと早く言ってくれなかったんだ。
いや――言わせなかったのは俺だ。
だって俺も、ずっと澪を好きだった。
ただ臆病で、言えなかった。友達でいたほうが楽だと思った。日常が壊れるのが怖かった。
そんなちっぽけな理由を優先した結果が、これだ。
机に置いたペンに視線を移す。大学に来てから始めた創作ノートが、隅に積まれている。澪と過ごした高校時代を、物語として書き残そうとしていた。でも、そこに「澪の死」はなかった。
書けなかったからだ。
書きたくなかったからだ。
でも、澪のメモを読んでしまった今、もう逃げることはできない。
「……書くよ、澪」
誰に聞かせるでもなく呟いた。
言葉にした瞬間、胸の奥の空白が少しだけ埋まった気がした。
澪の死を受け入れるためじゃない、忘れないためでもない。
澪の中にあった、僕への「好き」を、無かったことにしないために。
僕は手を動かす。
澪が生きていた日々。笑った顔。怒った声。何気ない口癖。あの冗談めいた「死ぬんだよ」。
その全部を書き残すために。
澪のスマホは机の上で静かに横たわっている。
画面には、澪が最後に書いたあの文字がまだ表示されていた。
――春紀くんが好きです。
その言葉が、これから書く物語の始まりになった。
*
メモを読み終えたあとも、しばらく僕は動けなかった。涙が止まらないとか、ショックで倒れそうとか、そういう劇的な状況ではない。ただ、胸の奥に重く沈んだ鉛を抱えたまま、身体の電源が切れたようにぼんやりとしていた。
静まり返った部屋の中で、唯一動いているのは冷蔵庫のモーター音だけ。窓越しに差し込む夕日が赤く、部屋をじわりと染めていく。その光の中で、澪のスマホはどこか温かそうにも見えた。
「……知らないことばっかだな、俺」
気づけば、そんな独り言が漏れていた。
僕はあいつのことをわかったつもりでいた。補習をして、隣で笑って、妹とも仲良くして……それだけで理解できたなんて驕りだ。澪の口癖も、勉強でつまずいた理由も、心の中の陰も、ぜんぶ「そういうやつなんだ」とまとめて片づけてしまっていた。
その結果、澪の「好き」という言葉を、生きているうちに聞くことも言うこともできなかった。
スマホをそっと閉じ、机の上に置く。ふと視線が一冊のノートに止まった。大学に入って始めた、創作ノート。表紙は安い紙製で、角がめくれている。
そこには、澪との高校時代のエピソードが断片的に書き留められている。出会いの日、補習、休日の散歩、三人で食べたアイス……。
でも、読み返してみると、どのページにも共通しているものがあった。
――それは嘘だ。
俺は物語の中で、澪の死を回避していた。
「ちゃんと今日も生きてる」
「明日も会える」
そんな何でもない一文を書くだけで、俺は救われた気になっていた。
本当の澪を知らないふりをしていた。
俺はゆっくりとキーボードを手に取った。
けれど、モニターを見た瞬間、心の奥からためらいがせり上がる。
書いてしまったら、澪がいなくなった現実が、物語として固定されてしまう。
もう覆すことができなくなる。
「……それでも、書かなきゃな」
言葉にしてみると、ほんの少し前に比べて胸の痛みが和らいだ気がした。
あの日、澪がどんな気持ちでメモを残したのか。
どうして俺にスマホを託したのか。
その答えに辿り着くには、書くしかない。
文字を打ち始めたとき、スマホが小さく震えた。驚いて画面を見ると、通知ではなく、電源が入ったままの画面が勝手にスリープから復帰しただけだった。
だが、その瞬間がやけに心臓に悪い。
「……澪?」
口に出してから、自分で恥ずかしくなった。
いるわけがない。
わかっているのに、つい振り向いてしまう。
画面に映っていたのは、メモアプリの続きだった。
最初の「本当はね、春紀くんが好きでした」に続いて、スクロールしないと見えなかった文章があった。
震える指で画面を下に滑らせる。
――ほんとは、ずっと前から言いたかったけど
春紀くんの邪魔をしたくなくて
言えなかった。
胸が締め付けられる。
邪魔なんて思ったこと、一度もなかったのに。
さらにスクロールする。
――でも、わたしがいなくなったあとも
春紀くんが迷わないように
言葉だけは残しておきたかった。
たまらなかった。
涙が頬を伝い、画面に落ちる。
生きている間に言ってほしかった、という気持ちと同じくらい、こんな言葉を残されることがつらかった。
「……澪、なんで最後にこんな優しいことするんだよ」
思わず呟いて、喉が詰まった。
澪の口癖が脳裏に蘇る。
――人って案外簡単に死ぬんだよ。
あれは冗談ではなかったのか。
俺に軽く言ってみせることで、自分自身に言い聞かせていたんじゃないか。
なのに、俺はただ笑って、受け流してしまった。
「……ごめん」
誰に届くわけでもない謝罪がこぼれた。
その瞬間、モニターが視界に入る。
書きかけの言葉、未完成の文章。
そのどれもが、いまの俺には中途半端に思えた。
澪が残したメモは、過去形だった。
だからこそ、俺は現在形で書かなければならない。
澪が生きていた記録を。
俺が好きだった澪を。
俺を好きだった澪を。
スマホの画面をそっと閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。
キーボードを打つ手はまだ震えていたが、逃げ出したいほどではなかった。
「よし……続きを書こう」
小さな声で言って、ノートの最初のページを開く。
高校二年の春。
澪と出会った季節。
ページの白さが、まるで「ちゃんと思い出せ」と言っているようだった。
俺は一文字目を書き始めた。
キーボードの打鍵音は心地よく、少しずつ、胸の奥に積もっていた澱が動き出す。
書くたびに、澪の笑顔が浮かんだ。
書くたびに、澪の声が戻ってくるようだった。
けれど、その温かさと同時に、どうしようもない痛みも湧き上がる。
過去を書けば書くほど、もう澪が「いない」という現実が鮮明になってしまう。
それでも俺は書き続けた。
これは、俺と澪の物語だ。
澪が残した言葉に答える、たった一つの方法だ。
*
その夜、部屋の窓から差し込む月光は、薄い銀色のカーテンを通して柔らかく俺の机を照らしていた。キーボードを打つ手はまだ微かに震えている。机の上には澪のスマホがそっと置かれ、まるで俺の行動を見守るかのようにそこにあった。
ノートには、高校二年の春、初めて澪と出会った日から書き起こしていた。補習のこと、笑い合ったこと、彩香の些細な表情や言葉も書き込む。すべてを書き残すことで、忘れたくないと思った瞬間の温度や匂いまで、形にしてしまいたかった。
――俺は、あいつを失ったんだ。
その事実はどんなに文章を書いても消えることはない。けれど、文字にすることで、心の中の混乱は少しずつ整理されていくように感じた。
「そうか……こういう気持ちが澪のメモの裏側にあったのか」
ページをめくるたび、過去の思い出が鮮やかに蘇る。澪の小さな笑顔や、ちょっとした口癖、「人って案外簡単に死ぬんだよ」という不思議な冗談。あの日、冗談だと思って笑っていた言葉が、今は胸に刺さる。
それでも、俺は笑って書いた。手を動かすたびに、澪が隣で笑っている気がしたからだ。笑い声、怒った顔、拗ねた表情、どれも今の俺にはたまらなく愛おしかった。
そして、自然に文章は夜の静けさを背景に長く伸びていった。机の上のスマホが微かに反射する光の中で、俺はその文字に励まされ、また悲しみに胸を締め付けられる。感情の振れ幅が大きく、目まぐるしく変化する。
「俺は……何をしていたんだろうな」
高校時代、告白できなかったあの日々。毎日、笑いながら話して、遊んで、彩香と三人で過ごした時間。なのに、肝心なことは何一つ言えずに過ぎてしまった。澪が俺を好きだということも知らずに。
涙が頬を伝い、服に少し落ちる。白い服には小さな水滴が広がる。だが、それでも書き続ける。
後悔しても、もう戻れない時間を取り戻すことはできない。ならば、せめて文章にして未来に残すしかないのだ。
ふと、あの言葉を書き込んだ。
――「人って案外簡単に死ぬんだよ」
口癖を文字として残すと、不思議とあの時の澪の声や表情が鮮明に蘇った。冗談めかして言ったその言葉の裏には、もしかしたら怖さや不安が隠れていたのかもしれない。
俺は、もう逃げることはできない。
深呼吸をひとつして、手を動かす。澪のスマホに触れることはしなかった。ただ横に置き、存在を感じながら、物語の続きを書く。それは、俺自身の心の整理であり、澪に対する遅すぎた告白のようでもあった。
「ありがとう、澪。教えてくれて……伝えてくれて」
声に出すと、少しだけ心が軽くなる気がした。悲しみはまだ残っている。けれど、書くことで澪との距離が縮まるような感覚があった。
書きながら、俺は気づいた。過去の出来事や思い出を文字にすることで、澪は俺の中で生き続けるのだと。もう二度と会えなくても、言葉として形にする限り、あいつは消えない。
夜が深まるにつれ、部屋はさらに静まり返る。だけだけが響き、呼吸の音が小さくなっていく。澪のことを思うと胸が苦しくなるが、その苦しささえも、俺にとっては必要なものだと思えた。
机の上のスマホを見つめながら、もう一度呟く。
「僕は書く。澪との時間を、あいつの言葉を、残すために」
打鍵音とともに、モニターには文字が浮かび上がっていく。過去の澪と、未来の自分の間を繋ぐように、文章は静かに進んでいく。
窓の外には、夜の街灯が点々と輝き、遠くで車の音や人の声が微かに聞こえる。その音も、文章を書く手にリズムを与えてくれるかのようだった。
やがてページの上に、澪と過ごした高校二年の春からの記憶が少しずつ書き込まれていく。笑い声、言い争い、冗談、日常の些細な会話。すべてが、生き生きと紙の上で息づき始めた。
俺は、あいつのことをただ書くだけでなく、心の中で何度も話しかけ、何度も笑い合い、何度も手を握った気持ちになった。そして、ページの最後に、そっとこう書いた。
――ここから始まるのは、俺と澪の物語。
夜は更けても、手は止まらなかった。
澪の声と存在が、いつも隣にあるかのように、俺を支えていたからだ。
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