赦しの果てに ―沈む愛と、残された春―

てつ

第1話 幸福の崩壊

朝の光がリビングに差し込む。

理沙は寝ぼけた顔でコーヒーを手に取り、いつものように笑った。


「おはよう、大和」

「おはよう、理沙」


何気ない日常。休日の買い物、夕食の支度、テレビの前で肩を寄せ合う時間。

僕らの生活は平穏そのものだった。

だけど、どこか胸の奥に微かな違和感が芽生え始めていたのを、

僕はまだ気づいていなかった。


僕は最近、あるプロジェクトを任されていた。

仲間たちと一緒に、日々の残業に明け暮れ、時には泊まり込みさえいとわなかった

それも、愛する妻・理沙との生活のためと思えば、なんてことはない。

そう思っていた。


しかし


理沙にしてみれば、帰りが遅い僕を一人待つのは寂しいのだろう。


「今日も遅いの?」

「うん、ごめんな。仕事が一段落したら息抜きに温泉でも行こう」

「ホント!うれしい!!」

と理沙は喜んでくれた。


だけど

「ごめん、仕事がなかなか終わらないんだ・・・すまない」

「うん、いいよ。仕事が一段落したらでいいよ」と彼女は言ってくれた

でも、その顔は笑っていても目は、笑っていない。



ある日

会社に着くと、上村課長が姿を現した。

彼の指導は厳しく、社員たちはみな緊張する。

だが、どこか余裕を漂わせる態度。

理沙がその上村を見る目には、わずかに動揺が見えた。



「……なんでもないよ」


理沙はそう笑ったが、その笑顔の奥に隠された何かを、僕は漠然と感じ取った。

まさか、まだ起こっていないことに対して、心がざわつくとは思わなかった。


昼休み。理沙から短いメッセージが届く。

「今日は残業になるかも」。

普段なら何気ない内容なのに、今日はなぜか胸の奥がざわついた。

僕はすぐに返信した。「気をつけてね」。

だが、送った指先が震えていることに自分でも気づいた。


帰宅してからの理沙は、いつもと変わらず笑顔だった。

だが、その笑顔の端に、どこか力の抜けた影があった。

僕は見て見ぬふりをしたかった。

幸せな日常が、壊れることをまだ信じたくなかったのだ。


数日後、会社でのこと。理沙が上村と話しているのを目にした。

二人の距離は近く、上村は笑顔を絶やさない。

その笑顔に、理沙も微かに応じる。

見過ごせるほどのものではない、しかし決定的でもない。

その絶妙な距離感が、僕の胸を締め付けた。


「何を話していたんだろう・・・」


僕は声に出さずに呟いた。

理沙に問いただすこともできず、ただ心の中で問い続けるしかなかった。


その夜、二人で夕食をとっていると、理沙がふと真剣な表情で言った。


「最近、仕事で上村課長に頼まれることが多くて・・・ちょっと疲れちゃった」


「そっか・・・無理しなくていいんだよ」


僕は自然にそう返したが、頭の中では警報が鳴っていた。

理沙の「疲れ」の裏に、何か別の感情が潜んでいる気がしてならなかった。

けれど、夫として信じるしかない。

信じたい気持ちが、胸の奥の不安を押し殺していた。


ある晩、理沙の携帯に通知が入った。

ふとした瞬間、上村からのメッセージが目に入る。

「明日、ちょっと話したいことがある」。

内容はあくまで業務の話のようだが、その文章の端にある微妙な軽さが、

僕の心に小さな針を刺す。


「大丈夫かな・・・」


理沙に尋ねることもできず、僕は布団の中で目を閉じるしかなかった。

幸せだと思っていた生活の裏側に、静かに影が忍び寄っているのを感じながら。


週末、二人で買い物に出かけた。理沙は笑顔で僕の手を握る。

けれど、その手の温もりが、かえって僕を不安にさせる。

上村の存在が、理沙の心に何かを残している気がしてならないのだ。


「大丈夫だよね・・・理沙」


僕の声はかすかに震えた。理沙は笑顔で頷く。「大丈夫だよ、大和」


その瞬間、信じたい気持ちと、胸の奥にある違和感が交錯する。

幸福の影に、静かに亀裂が走り始めていたのだ。


会社の帰り道、僕は部下の大澤菜月と偶然エレベーターで一緒になった。

彼女は聡明で冷静な女性で、僕の相談相手でもある。


「最近、理沙さんの様子、変じゃないですか?」


その一言で、胸の奥に積もっていた不安が形を帯びた。

菜月の目には、僕がまだ気づいていない何かを見透かすような光が宿っていた。


「・・・うん、少しだけ。でも、気のせいかもしれない」


嘘をつくつもりはなかった。

ただ、信じたい気持ちがあった。

しかし、菜月の視線は揺らぐ僕の心を鋭く突き刺した。


夜、リビングの灯りの下で理沙の姿を見つめる。

笑顔は変わらず、柔らかく、温かい。

それでも、胸の奥の違和感は消えない。

幸福の表面の下で、何かが静かに動き始めている。



僕はまだ、それがどれほど大きな嵐になるのか、知る由もなかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る