未来への頼みーアパートの鍵を握りしめたまま、オレは旧日本海軍の士官になったー
山口灯睦(やまぐちとうむ)
1章 現代編
第1話 ①ただいま。
「ただいま。」
もちろん、誰からも「おかえり」は返ってこない。
シンとした玄関に響くのは、自分の声だけだ。
今日はハードだった……いや、今日もハードだった。
そう呟いて、誰もいない玄関のドアを閉める。
外の熱気が遮断され、一瞬だけ安堵が訪れた。
テーブルの上の物を端によせ、コンビニ袋を置く。
弁当は、いつもどおり温めてもらってある。
だから、レンジにはかけない。
テーブルの前に座り、まずプシュ。
弁当と一緒に買ったいつもの発泡酒を一口。
それからプラスチックのパックをぺりっと開封する。一口。
美味い、ってわけでもない。
ただ、体が燃料を求めていた。
残りの発泡酒で、口の中の味をごまかすように流し込む。
つまみは買わなかった。
正確には、買えなかった。
コンビニの棚には魅力的な揚げ物やスナック菓子がずらりと並んでいた。
フーデリと軽バンの配達をがっつりやれば、確かにそれなりの収入にはなる。
買えないわけじゃない。
だけど、もし病気になったら? 事故で怪我でもして稼働できなくなったら? その瞬間から、収入はゼロだ。
そんな漠然とした不安が常に付きまとい、わずかな贅沢に手を伸ばすことを許さない。
レジで打ち出される金額を想像するだけで、自然と手が引っ込む。
この弁当と発泡酒だけで、今日が終わる。静かに、機械的に。
シャワーを浴び、濡れた髪をタオルでざっと拭いて、ベッドに倒れ込む。
夏の気怠い夜。
エアコンの冷気も追いつかない。
本当は湯船に浸かって、ゆっくりしたい。
だが、水道代とガス代が頭をよぎる。
会社員だった頃なら、そんなことを気にすることもなかった。
有給もあれば、体調を崩して休んだところで給料が減る心配もなかった。
だが、今は違う。
個人事業主である俺に、休みはイコール無収入だ。
自分で決めた、選んだ道とは言え、わかってはいたが、それが現実だ。
冷えたままの部屋で、目を閉じた。
迫り来る家賃、国民健康保険料、年金の支払いが、鉛のように胃の奥にのしかかる。
スマホが鳴る。LINEの通知だ。
画面には、見慣れたサークル仲間のグループ名が表示されている。
『今週末、久々に飲みに行くぞー!』
メッセージの横には、楽しそうな絵文字がいくつも並んでいた。
既読はつけずに画面を閉じる。
返信する気力も、金も、そして何より、彼らと顔を合わせる勇気もなかった。
久しぶりに、グループLINEをくれた友人のInstagramを開いてみた。
そこには、俺とは別世界の「普通」が広がっていた。
『新車、ついに納車されました!』というコメントと共に、真新しいSUVのハンドルを握る友人。
海岸沿いのカフェで、お洒落なブランチを楽しむカップルの写真。
『今日のランチ、最高でした』とタグ付けされた、SNS映えする料理の数々。
豊橋の大学での日々は、確かに楽しかった。
あんなにもバカをやって笑い合った仲間たち。
だが、今の自分は、彼らが住む世界とはかけ離れた場所にいる。
彼らのキラキラした「普通」の生活の中に、俺が入り込む隙はもうどこにもない。
適当な理由をつけて断り、また次の誘いもいずれ断る。
そうやって、俺は少しずつ、人との繋がりを自ら断ち切ってきた。
翌朝。
スマホのアラームはかけていない。
光が差し込む頃に、自然と目が覚めた。
時計を見ると10時過ぎ。
大急ぎで身支度を整える。
朝ごはんは食べない。食べると眠くなる。
アパートの狭い玄関から、クロスバイクを引っ張り出す。慣れた手つきで施錠を外し、アスファルトへ。
チャリにまたがり、配達用アプリを立ち上げる。
フーデリ──フードデリバリー。
午前から午後まで、ひたすら街をクロスバイクで駆け回る。
日差しは強く、汗は止まらない。
だけど、これが今の「仕事」だ。
朝から何も口にしていなかった。午後2時を過ぎ、ようやく休憩がてらコンビニに立ち寄る。
パンをコーヒーで流し込む。
一緒に買ったエナジードリンクをクロスバイクのドリンクホルダーに差し込む。
これで、もうひと頑張りできる。
スマホのアプリから、また新たな通知が入る。
配達先は、少し離れた大学の学生寮。
そこからさらに、別の配達へとルートが表示された。
「マックか……」
エナジードリンクを一口煽って、気合を入れる。
デリバリー専用の受け取り場所へ急ぐ。
自分の端末に表示された番号を告げると、奥から熱々の袋が出てきた。
注文はテリヤキマックバーガーセット。
目的地は、地元でも有名な医大の学生寮だった。
クロスバイクに再び跨り、学生寮へと向かう。
「お届けに参りました、吾妻です」
部屋のドアを開けたのは、自分よりも明らかに若い、大学生らしき男だった。
スマホを片手に、少しけだるそうにしている。
「どうもー」
軽くそう言っただけで、そいつはセットを受け取ると、すぐにドアを閉めてしまった。
「いい身分だな……」
小さく呟く。
親からの仕送りだろうか。
苦労なんて知らずに、好きなもの食って、のんびり過ごしているんだろう。
俺が汗だくで走り回って、やっと今日の飯代を稼いでいるというのに。
そんな考えが頭をよぎり、胸の奥がチクリと痛んだ。
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