第39話 決断

 千弦は怒りの表情で歯をむき出しにし、口角泡を飛ばして叫んだ。


 俺はその様を見て、かなり驚いた。俺の目には、千弦が冷静そのものの人種に見えたからだ。だが今、目の前にいる男は感情をむき出しにしている。ほとんど心の内を裸同然にさらしている。


 よほど、あの娘を大事に思っていたんだな。俺はそう思った。その証拠に千弦は「殺しやがった」とは言わずに「奪いやがった」と言った。きっと、言いたくなかったんだろう。殺した、という言葉を言えなかったんだろう。心が苦しくて使えなかったんだろう。だから奪ったと言い換えた。たかが言葉とはいえ、そんな言葉を口にするのは心底嫌だったんだろう。そんな心情が、千弦のむき出しの顔から読み取れた。


 だが――


 俺は迷っている。どうするべきか。金の問題はさておき、果たして本当に千弦たちに来栖を引き渡してもいいのだろうか。渡せば、確実に来栖は殺されるだろう。それも地獄のような痛みや苦しみを味わいながら、奴は死ぬことになる。


 確かに来栖は、悪人だ。人を、それも未来多き若い女性を殺害したのだ。地獄に落ちても仕方がない。


 地獄に――


 俺はふと、横目で隣を見た。そこには地獄を棲み処とする奴が立っていた。


 地獄は――ある。少なくとも死者の行きつく場所が、異世界にはあった。俺は異世界でその死者の国を巡ったことがある。そしてそこでは、たくさんの死者が至る所で苦しんでいた。絶え間ない痛みを味わい、塗炭の苦しみに叫び声を上げていた。そこはまさに、地獄と呼ぶべきところであった。


 そこで俺は、ソルスと出会った。


 と、ソルスが俺の視線に気づいた。


 ソルスが軽く俺の方を向いて、ニヤリと口の端を上げる。


「どうするのだ?千弦に渡すか?それとも警察に引き渡すか?もしくは、俺にくれるか?」


 ちっ!なんでお前に来栖をやらなきゃならないんだよ。お前にやったって一円にもなりゃしないだろうが。


 しかし、どうしたもんか。殺されるのを承知で、引き渡すのか。それは、俺自身が殺人に加担することになりはしないか。


 ――なるな。それはなるよ。渡すしかない状況だったらともかく、俺と千弦では、俺の方が遥かに立場が上だ。断ろうと思えば簡単に断れる。にもかかわらず、この状況で来栖を引き渡せば、確実に俺は殺人に加担したことになる。


 参ったね。俺は異世界ではたくさんの魔物を殺してきた。二十年もの長きに渡り、殺して殺して殺しまくり、最後は魔王まで殺した。今までに殺した魔物の総数なんて覚えちゃいない。だが、人間はひとりも殺さなかった。ただのひとりもだ。そりゃあ嫌なやつもいた。ろくでもないやつも。だが俺は、そんなやつらですら殺しはしなかった。だから――


「やっぱり取引はやめだ」


 俺は決断を下した。


 千弦が細長い切れ長の目を、大きく見張った。


「なんだと?」


「当初の予定通りに、来栖は警察に引き渡すことにする」


 千弦は今にも俺に飛び掛かりそうな表情で、歯ぎしりしながら言った。


「何故だ」


「さすがに、お前たちに八つ裂きにされることを承知で渡すわけにはいかないと思ってな」


「あんな外道がどうなろうと、お前に関係ないだろうが」


「なんと言われても来栖は渡さない。諦めろよ」


「諦めるわけねえだろ」


「組長への忠誠心は立派だがな。ダメなものはダメだ。お前もさ、そりゃ組長のお嬢さんならそれなりの付き合いはあっただろうし、悲しむ気持ちはわかるけどよ。諦めてくれ」


 俺が諭すように千弦に言ったところで、突然背後から悲痛な叫びのような声が上がった。


「お前に何がわかるってんだ!」


 振り返るとそこには、ふらふらとしながらも立ち上がった柴崎がいた。

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