第5回 二日目

 閏二月十八日。朝方。


 春風の吹き抜ける朝というものは、この一年の中で最も素晴らしいものの一つだとぼくは思った。目の前からそよそよと現れて、かすかに頬を撫でては後ろに去って行くそれには、僅かではあるが甘い花の香りが含まれていて、それに誘われる蜂さながらにふわふわと道を逸れて行きたくなってしまう。


 ここは京師から離れること二十里余り。永定河の辺り。河に大きな橋を渡し、西は涿州の方角を目指して伸びて行く街道をじっと見つめていると、あちらの方からひっきりなしにいくつも馬車や荷車の類がやって来て、我先にと渡ってこちら側へ向かうのが手に取るように分かった。


「のどかなものだな、アルサラン。ぼくもこうして、のんびりとした常春の国で、晴耕雨読の生活を送りたいと思っているのだが、どうかな?」


「永暁さまに畑を耕すなんてことができるとは思いませんけどねえ」


「同感だ。ぼくも、剣を振るったり馬に乗ることはできても、鍬を根気良く土に入れるとか、一粒一粒種を撒くような真似はできん。つまり、耕作は包衣であるお前の仕事ということだ」


「自分も野良仕事から解放されて久しいですからねえ。お屋敷の事務には大分通じましたが、そっから先の仕事は闇の中ですよ」


 意外に思われることが多いが、本来アルサランの仕事はぼくの護衛や荒事ではなく、屋敷に舞い込む膨大な事務作業の処分にある。


 公的な身分としては『瀏親王府・宗人府付き筆帖式ビトヘシ』という肩書きを持つ彼は、様々な文書を漢文から満文に訳したり、逆にぼくが満文で起草した命令書を漢文に直したりするなど、屋敷の運営に不可欠な役割を果たしてくれている。


「その事務作業要員をわざわざ連れ出して、非番の日なのをいいことに王府の仕事を悉く放り出すなんて、相変わらずいい性格してらっしゃいますよね、永暁さまは」


「案ずるな案ずるな。ぼくが居なくたって王府の仕事は回る。旗人だって、日々ぼくのご機嫌を伺わなくたって、やるべきことをきちんとやってるさ」


「殿下の進退には、傘下一千人以上の旗人とその家族の暮らしが掛かってるんですけどねえ。出来ればもう少し自覚を持って頂きたいものです」


「それ以上ぼくに都合の悪いことを言いやがると、口を縫い付けるぞ」


 親王・郡王・貝勒などの爵位を持つ皇族は、同時に複数の八旗旗人を傘下として抱える『旗王グサイベイレ』でもある。ぼくら満洲人は、大清の建国以来皆『八旗ジャグン・グサ』と呼ばれる軍事・社会組織に所属し、末端の旗人を旗王がまとめ、その旗王が皇帝に忠誠を誓うという─古い言葉で言うなれば『封建制』の下で国を支配している。


 ちなみに、皇帝本人も八旗のうち三旗を一人で統率する大旗王であり、瀏親王は正紅旗という『旗』の一部を率いる小旗王ということになる。間違っても叛乱など企めるはずが無い。


 要は、ぼくも一国一城の主人として一千人からの戦士を統率する身分なのだから、いい加減自覚を持てとこの包衣は言うわけだ。まったく大生意気な話である。


 ぼくは済ました顔で隣を行く男の弁髪を手で掴むと、引っ張るぞと言いたげに視線を送った。


「分かりました、もう言いませんからご勘弁を。落馬すると痛いんですよ、これが」


「分かったならいい」


 そっけなくぼくは呟くと、改めて周囲に広がる荒涼たる大地の様をぼんやりと眺めやった。地平線、奥行きのある青色の半球が天を覆い尽くし、その中に幾つかの雲を浮かせて奇怪な模様を描き、地上であくせく働く我々を嘲笑っているかの様であった。


「なぁ、一つ考えたんだが」


「なんでしょう、永暁さま」


「この宇宙というものを考えた人間は、なんとも趣味が悪いと思わんか。少なくとも、性格のいい存在ではあるまい」


「急に学問の話か何かですか?嫌いではありませんが、調査の方を早々と終わらせないと、日が暮れてしまいますよ」


 ふん、と鼻を鳴らすアルサラン。まったく、散文的な男はもてないぞ。内心でそう呟きながら、ぼくは手綱を絞って馬を前に進め、かの貝勒が不幸な事故に遭遇した河原の場所へと向かっていったのだった。

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