第2回 仕事
時間にして正午を僅かに過ぎた頃。夜の間に回ってきた事務書類に一通り判を押し終え、予定通りに仕事が片付いたことを確認すると、ぼくは大きく伸びをして椅子から立ち上がり、
「なあ、アルサラン。昼餉にしないか。腹が減った」
「どうしますか、何か食べたいものでもあります?」
「特に思いつかんから、少し外城の方に遠出しよう。前門大街の都一処で焼売でもどうだ」
「いいですね、行きましょうか」
親王本人が供回り一人で外出し、剰え下町の料理屋で食事を仕入れるなど前代未聞であるが、ぼくの周りにいる人間はこの程度のことでは驚きもしない。
むしろ、そのことを大いに利用するに如かずといった体であり、最初は殿下直々のご来訪に恐れ慄いていた店の方でも、いつの間にか図々しく『殿下御用達』と称する看板を掲げて商売に活かしている。
だが、そうした商売っ気のある強かさを、ぼくは愛している。一度しか足を運んでいないのに生意気にも看板を下げた茶屋には、嫌がらせの様に何度も何度も通ってやったし、『瀏親王殿下も絶賛!』というチラシを作った点心屋には宴の為に包子を二百個注文してやった。
その様な調子でなんとか食事を調達し、半刻(いちじかん)ほどして府に戻ってみると、ぼくの執務室の前でじっと官僚が一人立ち続けていた。何かあったのか、と声をかけてみると、彼はすぐさまピシリとした挨拶と共に一枚の報告書を差し出し、
「殿下、たった今京師の崇文門街の
「それは本当か?」
「はい。使者の方によりますと、老貝勒殿は十六日早朝に別荘からの帰還中事故に遭遇。夜半に邸宅へお帰りになったが、その場で卒去が確認されたとのことであります」
「分かった、報告書に目を通した後、決裁を下そう。持ち場に戻れ」
「はっ!」
「やれやれ、『正規』の仕事などぼくのところに持ってくるんじゃない、とでも言いたげなため息ですね、永暁さま」
「大正解だ。いくら仕事とはいえ、こんな仕事は受けたくない」
嫌々ながら執務室に戻ると、ぼくは買ってきたばかりの焼売が入った竹の蒸籠を開け、食欲をそそる匂いの中で報告書に目を通し始める。
「宗室弘侃、生年月日は雍正元年九月十八日……正藍満洲旗人、爵位は
「社交界ではそれなりに有名な人でしたよ。老いてなお矍鑠としていて、言葉遣いも耄碌した点は一つも無く、受け答えもしっかりしていました」
「そういう老人は、余り好きではないな。自分の健康や動きに自信を持っているだけに、却って下手な怪我や病気をしてコロッと逝ってしまうから」
「なんてことを仰るのですか」
とアルサランは笑って流すが、こちらの心境は彼のそれ程穏やかではない。ぼくの脳裏には足掛け六十年にわたって皇帝として君臨し、そこから更に四年間太上皇として実権を握った余りにも偉大な伯父──乾隆帝の末路があった。若い頃の精悍さと鋭敏な知性は失われ、耄碌と退嬰の色濃い玉体を宦官達に助けられながら運び、それでいて最期まで自身の偉大さを信じて疑わぬまま逝った。
「(そして、その老いに擦り寄っていた奸臣達も根切りにされ、冥土の御供を命じられたのは記憶に新しい)」
無論、この弘侃という老人がそうであったとは言わないが、人間は歳をとると途方も無いことを─しかも、大概は禄でもないこと─を考えついたりやり始めたりするもので、若い者がその尻拭いを強いられるのが当たり前である。
「まあいいや、せめて面白いしくじりをしてくれていたら、話の種にもなるだろう」
「永暁さま?」
「出掛けるぞ。記録道具と適当な手土産、あと紙銭を道中で仕入れていこう。一応は老貝勒の見届け人をやるのだ、くれぐれも失礼のない様にな」
失礼が無いように──などと言っておきながら、唐突に二人きりで邸宅を訪問し、死んだ主人に会わせろと迫るのは無礼ではないのだろうか。古の
弔問に必要な儀礼的な手続きを済ませ、帝の方にも報告を回す。先触れを手配し、正式なものは後日にするとしても、死者に供えるお悔やみの花やお香を揃えさせて荷物持ちに持たせる。この辺りの細々とした仕事の処理能力は、やはり彼の方がぼくより数段上である。
「なんだ、今回は六人も供連れがいるのか?」
「本当はこの十倍でも少ないくらいなんですけどね」
「正式な弔問じゃないぞ。あくまでじじいが本当に死んだかどうかを確かめるだけだ」
「不謹慎ですよ!」
ぼくは外套についた埃をぱんぱんと払うと、これまた面倒げに、仕事中は外していた佩剣を腰に付け直した。
「あっ、左肩の
「いいよこのくらい。それよりも、他に持って行くものはなかったっけ?」
「朝珠はどうしたんです?」
「屋敷に忘れて来た」
「ちょっと!」
「だから良いと言っているだろう。どうせ正式な葬式はまた後日やるのだから」
「あの、ご自身が帝の代理人として検分に行くってこと、お忘れですか?」
「知らん」
風でも吹いた様にさらりとそう言い放つ。これが国の最上位に立つ人の姿か?唖然として口を開けるアルサランであったが、仕方ないだろ、といった調子で笑いかけてやると、大きなため息と共に首を振って反論を諦めた。
「ほら、何やってるんだ、アルサラン。早いところ行こう、我々は暇ではないのだぞ」
「永暁さまは凄まじく暇じゃありませんか!」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます