葬令 〜変人親王の最後の事件〜

津田薪太郎

序章 嘉靖二十一年十月二十一日

 きりきりと、鳴いている。


 楊金英はそんな風に聞いた。彼女にのしかかられ、純白の絹で肥え太った何段にも及ぶ首の脂肪を締め付けられた男は、ろくに抵抗さえ出来ぬ己の身を恥じるでもなく、潰された蛙が最後の一息を口から押し出す様な、惨めな声を断片的に漏らしていた。


 ここで止めてはならない。絶対に。絶対に、ここで殺し切らなくてはいけない。


 何年もの間仕えてきた主人を殺すのに、一切の迷いも躊躇いも、もはや心のどこを探しても見つからなかった。


 彼女は共に押し入った同志──同じ宮女であり、歳の頃もそう変わらない者たち──に目配せし、両側から引っ張ることで締め上げられる絹の力を、更に強くすることを命じた。先程から何度も醜く足をばたつかせていたその男は、今や力も抜けて震え一つ漏らさず、黄色の寝衣には汗と垂れ流された屎尿のしみがじっとりと浮かんでいる。


 ごろり、と向かう先も分からずに転がされた瞳が、ふと楊のそれと交錯する。濁り切った双眸は何を見ているのか、彼女にはわからぬ。この国を見通す筈の、最も高貴であるべきその瞳で、この男は何を見ていたのだ。


 強い怨嗟が心を超え、身まで焦がしていくかの様な獰猛な感覚の中で、彼女は最期の止めを刺すべく、懐から短剣を取り出す。これで終わりだ、終わるべきなのだ、何もかも。


 窓から差し込む月光に白刃が煌めき、数千数万の女の命を奪い去った悪魔を永遠に葬り去ろうとするその直前、


「曲者だ!」


 がたり、と開かれた扉が全てを変えた。踏み込んできたのは宮廷の宦官たち、とはいえ生まれもって女である楊たちに比べれば、膂力は遥かに強い。忽ち床に押さえつけられ、捕えられた彼女らを冷然と見下ろすのは、紺色の生地に黄金の龍を刺繍した上着を纏った一人の女。


 この深夜にも関わらず、ぼうっと月の光の中に浮かび上がる程白粉をはたき、丁寧に整えられた妖艶な目元でじっと部屋の中を見つめる。そして彼女は、透き通った声で宣告した。


「皆の者、畏れ多くも大逆を企んだ、逆賊を引っ立てなさい!」


「「ははっ!」」


 あともう少しだったのに。誰かがそう呟くと同時に、宦官の手で足蹴にされて床に転がった。楊もまた荒縄を打たれ、暖かい布団で眠れた後宮から、暗く冷たい、害虫と鼠の這い回る陰鬱な地下牢へ、何十人もの血を吸って、どれほど洗っても酸鼻の香りが消えぬ拷問部屋へと堕ちていく。


 しかし、彼女の顔に失望は無かった。


「あぁ、これで終わるのね」


 むくりと起き上がったその男を前にして、確かに楊金英は、笑ったのであった。

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