第38話 空っぽの財布と微かなピザの匂い
新しい紺色のハーネス。それは確かに僕にとって最高のプレゼントだったけれど、代償はあまりにも大きかった。具体的に言うと、爽介の財布の中身が、文字通り「空っぽ」になってしまったのだ。
「……はは、むぎ。見てよ。お札が、一枚も入ってないや」
アパートの床に座り込み、爽介はレシートしか入っていない二つ折りの財布をパタパタと仰いでいる。
(……笑いごとではないぞ、爽介。お前、さっきから麦茶をガブ飲みして空腹を紛らわせているじゃないか)
「ボクは大丈夫だよ。ほら、まだ実家から送ってもらったお米があるし。ふりかけさえあれば、二年生になるまでは生き延びられるから」
(……情けないことを言うな。獣医の卵が栄養失調で倒れてどうする。それに、僕の高級ササミ缶はどうなるんだ。あの紺色の正装に見合うだけの食事を提供してくれないと困るぞ)
爽介は「そうだよね……」と呟きながら、スマホの画面をスクロールし始めた。 彼が探しているのは、春休み期間中、すぐに働けてすぐに給料がもらえる「短期アルバイト」だ。
「……これだ! 『深夜のピザ配達・急募』。原付の免許はあるし、深夜手当もつく。……よし、やるぞ! むぎ、ボク、お前のために稼いでくるからね!」
というわけで、爽介の「深夜のアルバイト生活」が始まった。
ー夜の22時。
爽介は赤いジャンパーを羽織り、ヘルメットを抱えて玄関に立つ。
「じゃあ、行ってくるね。いい子でお留守番しててよ、むぎ」
(……ああ。お前こそ、夜道には気をつけるんだぞ。方向音痴なんだから、ピザを冷ます前に自分が迷子になるなよ)
爽介が出て行った後の部屋は、ひどく静かだ。僕は窓辺に飛び乗り、暗い夜道へと消えていく原付のエンジン音をじっと聞いていた。
ー深夜2時。
ガチャン、と玄関の鍵が開く音がして、冷たい夜風と共に爽介が帰ってきた。 その体からは、香ばしいチーズとサラミの匂い、そして排気ガスの匂いが染み付いている。
「……ただいま、むぎ。……うぅ、外はまだ冬みたいに寒いよ……」
爽介は疲れ果てた様子で、床に座り込んだ。鼻先を赤くし、指先は寒さでかじかんでいる。
(……おかえり。ひどい顔だな。ピザの匂いをさせて帰ってくるとは、僕に対する嫌がらせか?)
僕は彼の冷え切った指先を、ペロリと舐めて温めてやった。
「あはは、くすぐったいよ。……でも、ありがとう。……今日はね、五軒も回ったんだ。最後の一軒、道に迷っちゃって焦ったけど、お客さんに『寒い中ありがとう』って温かい缶コーヒーをもらっちゃった」
爽介は、ジャンパーのポケットからスチール缶を取り出し、大切そうに眺めている。
「ボク、思ったんだ。……獣医の仕事も、きっとこれと同じなんだよね。誰かの『困った』を助けて、ありがとうって言ってもらえる。……今はピザを運んでるけど、いつかはお前の病気を治したり、誰かの家族を守ったりできる存在になりたいな」
(……ほう。アルバイトを通じて、また一つ魔法使いへの自覚が芽生えたか。……殊勝な心がけだ、爽介)
爽介は、テーブルの上に並べたバイト代の封筒を、愛おしそうに撫でた。
「これで、むぎの次のワクチン代と……あ、あと、香奈さんにホワイトデーのお返しも買えるかな。……ボク、頑張ってよかった」
(……結局、そこか。ん?お前、バレンタインチョコもらっていたのか!?ふざけるな!僕にくれなかったじゃないか!!……ま、まぁ、お前が幸せなら、僕も少しだけ嬉しいけどな)
アルバイト生活も一週間が過ぎた頃。 爽介の体力が限界に達しつつあった。昼間は大学の予習、夜はピザ配達。目の下にクマを作り、講義の資料を読みながらコックリコックリとしている。
ある夜、爽介は帰ってくるなり、玄関先で力尽きたように寝入ってしまった。
(……おい。こんなところで寝ると風邪を引くぞ。……ったく、世話の焼ける飼い主だ)
僕は、自分のベッドから毛布を引っ張ってきて、彼の体の上に掛けてやった。 すると、爽介が寝ぼけ眼で「……むぎ……ありがと……」と呟き、僕を抱き寄せた。
(……ちょ、おい! 暑苦しい! それにピザの匂いが毛に移るじゃないか!)
暴れようとしたけれど、彼の腕が意外なほど強く、そして温かかったから。 僕は諦めて、彼の腕の中で小さくなった。
ボク、頑張ってるよ。 お前のために。 ボクたちの未来のために。
言葉にならない爽介の心の声が、心臓の鼓動を通じて僕に伝わってくる。
(……わかっているよ、相棒。……お前が必死に稼いだそのお金で、僕に新しいハーネスを買ってくれたこと。その裏にある、お前の真っ直ぐな気持ちを、僕は一番近くで見てきたんだからな)
窓の外では、少しずつ春の夜が明けようとしていた。ピザの匂いと、新しい革の匂い。 そして、お互いを思いやる、少しだけ不器用で温かい匂い。 僕たちは、狭い玄関先で寄り添いながら、新しい季節が運んでくるはずの「幸せ」を、夢の中で一緒に追いかけていた。
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