第2話 捨てられた忠誠と静かな決別

控室に入った途端、扉が音を立てて閉まった。


 喧噪と楽の音が遠ざかり、代わりに重い沈黙だけが残る。


「……セリーナ」


 最初に口を開いたのは父だった。


 クロイツェル公爵。私に王太子妃教育を叩き込んだ張本人。戦場と政争を潜り抜けてきた“鋼”の男。


 その肩が、今はわずかに、情けないほど震えている。


「先ほどの件は、殿下の御意志だ。王も……同意なさっている」


「存じておりますわ」


 あの沈黙は黙認以上。共犯ですもの。


「不当だとか、誤解だとか……そう言いたい気持ちも、あるだろうが」


「父上」


 遮る私の声は、自分でも驚くほど穏やかだった。


「私は“至らぬ娘”だった、という結論なのでしょう?でしたら、反論はいたしません」


 父は顔を歪め、握りしめた拳に血が滲む。


「ここで抗えば、本当に潰される。王家と正面から争う余裕は、我が家にはない」


 ああ、その台詞。聞き慣れた理屈。


 国のため、家のため、人員と資金を切り捨てるときに、何度も口にしてきた言葉。


 今日は、私に向けて。


「……違約金については」


 宰相の言葉をなぞるように、父が告げる。


「王家は“セリーナ個人の不徳”とした。クロイツェル家として覆すことはできん」


「つまり」


「お前一人で、負え」


 ああ、はっきり仰いましたわね。


「父上」


 私は微笑んだまま、ほんの少しだけ首を傾げた。


「それが、クロイツェル公爵家としてのご判断でいらっしゃる?」


 視線がぶつかる。


 父は数秒の沈黙ののち、目を逸らした。


「……そうだ」


 プツン。


 今度ははっきりと、自覚できた。


 胸の奥で張り詰めていた何かが、静かに切れ落ちる音。


 尊敬とか、信頼とか、幼い頃から積み上げてきた“家族への忠誠心”と呼ばれる類のものが、一斉に色褪せていく。


「……わかりましたわ」


 私は膝の上で指を組み、淑女らしく会釈した。


「私の不徳の結果であれば、私が処理いたします。クロイツェル家にご迷惑はおかけいたしません」


「セリーナ!」


 母が叫ぶように声を上げた。


 パールのイヤリングが揺れ、縁に涙が光る。


「あなた、どうしてそんな……もっと殿下に縋ってお願いすればよかったのよ!」


「お母様?」


「あなたが謝って、身を低くしてお願いしていたら、殿下だって考え直してくださったかもしれないじゃない……!」


 ああ、この人は本気でそう思っている。


 王太子殿下が、公開断罪まで演出しておいて、今さら“やっぱりやめます”なんて言えると思っている。


「お母様」


 私はゆっくりと立ち上がり、ドレスの裾を整えた。


「殿下はもう、“新時代”をお選びになりましたのよ。私が何を申し上げようと、あの方のご決断は揺らぎませんわ」


「でも……でも……! あなたさえ少し我慢してくれれば、家は守れるのよ!」


「そうよ、お姉様」


 今度は、妹。


 レースのついたドレスを着た可愛い妹が、無邪気な瞳で私を見る。


「殿下だって本当は苦しかったと思うの。お姉様が完璧だから、息苦しくなっちゃったんだわ。だから、新しい風が必要になって……」


 なるほど。


 私が悪い、に仕立てるための言葉を、一生懸命探した結果でしょうね。


 悪意がないぶん、余計に救いがない。


「そう……かもしれませんわね」


 私は否定しない。


 否定したところで、誰も聞かない。


「お姉様はすごいけれど、ちょっと怖いし……リリアナ様は優しくて、“民のために涙を流せる聖女様”なんですもの」


 はいはい、テンプレート。


 民のために涙を流す“聖女様”は、きっと三年以内に王都ごと燃やしてくださいますわ。


 内心の皮肉を飲み込み、私は軽く目を伏せる。


「お母様、妹。ご安心くださいな」


 わずかに声音を柔らかくする。


「私は殿下のご判断に従い、静かに身を引きますわ。それで丸く収まるのでしたら、本望でございます」


「セリーナ……本当に、いいのね?」


「ええ。家のためですもの」


 嘘は言っていない。


 “今この瞬間まで”は、本気でそう思っている自分もいたから。


 父が安堵の息を吐く気配が伝わる。


 救われましたわね、公爵様。


 その「救い」は、あなた方が想像しているよりずっと高くつきますけれど。


「それで、今後のことなのだが」


 父が咳払いをして、事務的な声に戻る。


「当面、お前は表立った社交からは退き、王都の屋敷で謹慎という形に――」


「父上」


 私は静かに遮った。


「一つだけ、お願いがございます」


「……なんだ」


「王宮図書塔に、私が預けている資料がございますわね。王太子妃教育に関する整理途中の文書や、各部署の報告書写しなど」


「……ああ」


「それらの回収を、許可していただけますか?」


 父の眉がぴくりと動く。


「今さら、何のためだ」


「私が触れていた資料が王宮内に残りますと、“不徳な令嬢による工作の痕跡”などと邪推されかねませんでしょう?」


 ゆっくりと理屈を並べる。


「不要な火種を残さないためにも、私名義で扱っていたものを引き上げ、王家に関わるものは整理して返却した方がよろしいかと存じます」


 父と母が顔を見合わせる。


 ……ねえ。


 あなた方、本当に理解していませんわね。


 この期に及んでも、私は“王家のために最適解を出す便利な娘”だと信じている。


 父はやがて頷いた。


「好きにしろ。ただし、騎士をつける余裕はない。今夜中に済ませろ」


「ありがとうございます、父上」


「セリーナ、変な真似は……」


「いたしませんわ」


 私は微笑んだ。


「私はもう、クロイツェル家の名を汚すつもりはございませんもの」


 父はホッとしたように頷き、母は再び涙ぐみ、妹は安堵の笑みを浮かべる。


 ああ、本当に。


 誰一人、「不当だ」とは言わないのね。


 控室を出て廊下に出ると、祝宴の音がふたたび遠くから聞こえてきた。


 笑い声、祝福の言葉、新時代、新時代、新時代。


 私の代わりに掲げられた“真の花嫁”のための拍手。


 それらがすべて、ガラス越しの音のように遠い。


 回廊を歩く途中、古くから仕える執事が一礼した。


「お嬢様……」


「ええ、私は少し用事がございますので、先に失礼いたしますわ」


 誰も疑わない。


 “真面目で融通の利かない令嬢”が、きっと最後の後始末をしに行くのだと。


 王城から公爵家の馬車で移動する間も、車内には重苦しい沈黙が満ちていた。


 父は窓の外を見ている振りをし、母はハンカチを濡らし、妹は所在なげに指先をいじっている。


 私が口を開かなければ、誰も話しかけてこない。


 だから、私も黙っていた。


 馬車が公爵家の門をくぐり、石畳を軋ませて停まる。


 従僕が扉を開け、手を差し伸べる。


「お帰りなさいませ、お嬢様」


「ただいま戻りましたわ」


 本能的に出た言葉に、自分でわずかに違和感を覚える。


 ここは、本当に「帰る場所」かしら?


 玄関ホールに並ぶ家臣たちの視線は、露骨に揺れていた。


 同情、好奇、安堵、侮り。


 ああ、「殿下に捨てられた令嬢」への視線って、こういうものでしたのね。勉強になりますわ。


「セリーナ」


 階段の途中で父が振り返る。


「さきほどの話は決定だ。騒ぎ立てるな。静かにしていれば、そのうち噂も消える」


「ええ。静かにしておりますわ」


 その方が、動きやすいですもの。


 自室に戻ると、馴染んだ家具と書棚が迎えてくれた。


 机の上には、王太子妃教育に使ったノートが整然と積まれている。


 政務、財政、軍略、外交、礼法。


 十年以上かけて詰め込んだ知識の痕跡。


 その全てを、私は彼らのために使ってきた。


 彼ら、というのは、王家であり、家であり、国であり。


 そして今、それを全部まとめて「あなた一人の不徳のせい」と言った。


「……滑稽ですわね」


 思わず、声に出た。


 鏡に映る自分が、凪いだ顔で笑っている。


 涙は出ない。


 悔しさも、今は妙に遠い。


 代わりに、冷静な計算だけが鮮明だった。


 王家――切り捨て。


 公爵家――信用切れ。


 私の役割――終了。


「つまり私は、この家にとっても“便利な部品”でしかなかった、ということですわね」


 必要なくなれば取り外される部品。


 壊れても、誰も修理しない部品。


「でしたら」


 私はクローゼットから地味な外出用マントを取り出し、ドレスの上から羽織る。


 髪をまとめ、装飾品を外す。


 輝きは不要。今必要なのは、目立たないこと。


 扉を開けると、廊下に控えていた若いメイドがびくりと肩を震わせた。


「お、お嬢様……」


「少し、王宮図書塔へ行ってまいりますわ」


「こ、今からですか? お一人で?」


「父上から許可をいただきましたの。すぐに戻りますから、心配はいりませんわ」


 心底困惑した顔。


 でも止めない。


 誰も、止めてはくれない。


 だからこそ、都合がいい。


 夜気は冷たく、石畳を渡る風が、さっきまでの宴の熱を嘘のように奪っていた。


 私は一人、再び王城へ向かう。


 衛兵たちは私を見るなり、噂を思い出したような顔をして、ぎこちなく敬礼した。


「ご、ご通行を」


「ありがとうございます」


 身分証を見せ、事前登録の通行許可を示す。


 王太子妃教育の一環で、図書塔には何度も出入りしている。


 だから、今も通れる。


 ――まだ、切断処理が終わっていないのね。仕事が遅いですわ。


 王宮図書塔は、夜の闇の中、静かにそびえていた。


 石造りの塔に絡まる蔦が、月光を受けて白く光る。


 入口の扉には簡易封印と鍵。


 鍵穴に差し込む銀の鍵は、私自身のもの。


 王太子妃候補として許されたアクセス権限。


「これもすぐ取り上げられますわね」


 小さく呟きながら鍵を回し、重い扉を押し開ける。


 ひやりとした空気。紙とインクと古い魔力の匂い。


 積み上がる知識の匂いは、本来、私にとって居心地の良いものだった。


 でも今日は違う。


 もう、ここは私の職場ではない。


 彼らのために徹夜で文献を漁る必要もない。


「これで、本当に全部終わるのね」


 自分で自分に言い聞かせるように呟き、私はランタンに火を灯した。


 黄色い光が、螺旋階段の下端を照らす。


 上へと続く、長い長い道。


 王太子妃教育の集大成として通い詰めた、この塔の最上階。


 封印指定書庫。


 本当なら今夜、最後の確認だけして、鍵を返し、役目を終えるはずだった。


 だけど――扉に触れた瞬間、指先に微かな静電気のようなものが走った。


「……?」


 扉の向こうで、何かが目を覚ましたような、かすかなざわめき。


 私を、待っている?


 そんな馬鹿な。


 そう思いながらも、私は足を一段、また一段と踏み出した。


 ランタンの炎が揺れる。


 影が伸びる。


 螺旋階段の上から、微かな呼吸のような魔力の波が、確かに降りてきていた。

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