何でもない夏にバンドが解散するだけのお話
@aruzisu
第一話 解散
「そろそろさ、二人の将来を考えていこうよ」
蒸し暑い真夏の昼下がり、アパートの一室で私はアミに向き合う。今年で三十代の私たちの前には現実がある。いい加減、夢だけでは生きていけない。名前を呼ばれた売れないバンドマンはヘラヘラと「そんなのどうにか———」と言い訳を口にしかけたが、私の顔をみてやめる。代わりに長い溜息と「……ミユ、本気?」と小さな呟きが返ってきた。
「実はさ、バイト先から正社員にならないかって話が来ててさ。丁度いい機会だしさ」
もう十年近く働いている楽器屋の店長が気を利かせてこの話をくれた。元々バンドマンだったらしく、私の現状にとても共感できるからとのことらしい。いつもは陽気に「ギター弾きながら足でピアノ弾けたら最強じゃね」とかよく分からない話をしているのだけど、この誘いがあったとき、「しっかり考えて後悔しない方を選びなよ」と語っている店長はいつもの陽気なハゲ親父じゃなくて、夢破れた一人の若者の顔をしていた。
そこから一週間色々考えた結果、彼女に話を切りだす選択をしたのだ。結局私はアミと楽しく生きていきたい。できればこの先もずっと。それだけが私の願い。でも最近の彼女を見ていると、今の生活では待っているのは不幸しかないように感じられた。見知ったバンドが解散して、代わりに夢いっぱいの新顔が入ってきて、その中で売れる子がちょこちょこ出てきて、また解散して。そんな夢と現実の代謝がかれこれ二~三回ほど廻った今、老廃物の私たちが売れる余地はない。もちろん人間関係が悪い訳ではないし、むしろ後輩ちゃん達とはよく遊ぶぐらいには仲がいい。でも、ふとした時にそんな若さを、希望を見つめるアミの横顔にはもはや悲しみすらなかった。虚空だった。
彼女は本気で目指してきた。武道館にドームに、いっぱい夢を見た。だからこそ、自分にはもう手に入らぬ希望を一方的に見せるけられる姿は、エグられ続けた生傷を見ているようでで痛々しい。だからこそ私は彼女の夢を奪ってでも幸せにしたいのだ。
私の言葉を聞いてアミは睨みつけた。
「丁度いいって何?」
「ほら、最近は新規のお客さんだって減ってきたし、レコード会社から声もかからなくなってきたし、そろそろ二人で普通の生活をしたいなぁって」
「別に今の生活だって楽しいじゃん。これが私たちの普通でしょ?」
知り尽くした家なのに、紹介するように大きく手を広げる。雨漏りでできた巨大な天井のシミ。スス塗れのコンロ。異音のする扇風機。それぞれに思い出がある。必死にブルーシートをはった台風の日、初めてメジャーでCDを出した日に高級牛肉でちょっと贅沢なすき焼きをした記念日、真夏の夜に軋む音。他にもたくさんの思い出がこの部屋には詰まっていた。でもそれだけじゃこの先、生きてはいけない。バンド以外の時間はバイトするなんて生活は若さがあるからこそ成り立っているものだ。これが四十、五十歳になっても続けていけるのだろうか。最近そんな漠然とした焦りと不安が影のようにどこへ行っても付きまとう。
麦茶の入ったグラスの氷がカランと音をたて、どんどん溶けていく。
「それはそうなんだけどさ。でも一生この生活は続けられないよ」
「まだ先のことじゃん。今は全力で———」
「でもリカも抜けてドラマーいないし」
「また探せばいいよ。最初だって私たち二人から始まったんだし」
「ベースだって」
「夕夏もきっとよくなるよ。今はメンタルやっちゃってるけど、いつかきっと帰ってくる。それまでは———」
「でもいつか終わりは来るんでしょ?」
重い沈黙。
アミの希望に私は現実を重ねた。苛立ちと焦りと言わなきゃいけない気持ちのせいで大きくなった声で。私たちのバンドはもはやゾンビだ。継ぎ接ぎだらけで、生きているのか死んでいるのかも分からない。アミの希望だけで辛うじて生きているゾンビ。だからこそいま最も怖いのは彼女の語る希望だ。アミには私と違い、人を引っ張っていく力がある。実際私を含めバンドメンバーは皆彼女の語る根拠のない希望を信じてきたし、今だって信じている面もある。だからこそ、無理にでもそれを封じた。灰色で冷たい、事実で。
アミは少し驚いたような表情をして「そこまで言うなんて珍しい」と言うと、俯き黙り込んでしまった。居心地の悪い時間が流れる。古びた換気扇のカタカタと回る音だけが部屋中に響き渡った。
「ごめん、意地悪で言ったわけじゃ」
「わかってる。いつか終わりが来ることぐらい」
妙に優しい声。その無理をした声は今にでも壊れそうだった。心配になって「アミ?」と問いかける。
「わかってる、今が潮時なんだって。もう無理なんだって、ミユはそれを教えてくれただけ。ミユは悪くない。嫌な役回りをさせちゃったね、ごめんね。あと———」
俯いていた顔を上げた。
「———ありがとう。ミユ」
アミがほほ笑む。その瞬間、『あ、やってしまった』と、取り返しのつかないことをした、全てが終わったような感覚に襲われた。それはいつも通りの優しい目をした笑みだ。でもその目の奥底には普段の希望はなくて、代わりに暗い影のようなものが見える。生気が消え失せていて、まるで忘れらて朽ちた人形のようだった。どこまでも深くて、輝きが全くない目。私を見ているようで何も見ていない目。それでも笑い続ける口。私は彼女の最後の希望である、『ミユ』を奪ってしまった。
「アミ……」
私は本当にこんなものを望んでいたのか? 彼女の表情に息が詰まる。彼女の白く透き通った肌が、死者を連想させて今は不気味に感じる。アミにこんな顔をさせるために話をしたのか? 夢を奪うって、こんなことならしなきゃよかった。
「アミ、本当にごめん。ごめんね」
どうしていいか分からなくなって、だからとにかく抱き着いた。温もりを、懺悔を、言葉では表現できない感情たちを何とか伝えるために。
アミも抱き返す。弱く震えた手で。
「覚えてる? 結成した日のこと」
アミが耳元でか細く呟く。死を前にした人間が家族に言葉を伝えるような、穏やかな声だった。その声を聞いた途端、走馬灯のように思い出が流れ始める。朽ちたフィルムのように穴あきのところもあるけれど、出会いの場面は鮮明に思い出せる。忘れるはずがなかった。私がうなずくと、アミは満足げな声で話し続ける。
「あの日も今日みたいにさ、暑い日でさ、楽器屋で一人で弾いていたミユの音が大好きだしいつ行っても弾いてて真面目で、この子と一緒にやってみたいって———」
アミの声がじわじわと涙に浸食されてゆく。
「———だから私誘ったんだよ、バンドなんてやったことない陰キャだったのに、精一杯勇気だしてさ———」
涙をすすり、声が震える。私は「うん」とただうなずくことしかできない。
「そしたら世界が開けて、色んな子と仲良くなって、メンバー増えて、CDも出せてッ———」
思い出と現実とに声が詰まる。ぐちゃぐちゃになった感情が涙となり私の肩に落ち続けている。その涙の温もりには辛かったことや楽しかったこと、アミの思い出の中にある感情の熱が詰まっていて、それを肌ごしに感じる。夢を奪った私に泣く資格なんてない。でも、その温もりを浴びて沸き立った感情は、どれだけ止めてもあふれ出してきてしまう。落ちる涙が混ざり合って、もっとぐちゃぐちゃになる。アミの背中をさする。でも、それはアミのためなのか私のためなのか分からなくなっていた。
「でも、全部ダメになってッ、ミユも離れていってッ、何もなくなってッ」
「離れてなんかない!」
「じゃあさッ」
突然重力が強まり背中が床に叩きつけられる。目の前には目元を真っ赤にはらしたアミがいた。涙にぬれた目。いつでも整っていたはずの髪は乱れている。口元には自暴自棄になった人が見せる破滅的な笑み。覆いかぶさるアミで視界がいっぱいになる。いつもと違う、圧力を持ったアミを前にして私は動けない。彼女はその獣のような目で私を捕らえて叫ぶ。
「責任取ってよ。私に夢を見せて、夢を奪った責任」
「責任って———」
問おうとした口をふさがれる。強引だけど不器用で、でも温かい唇。桃のリップの味がする唾液と真夏よりも粘っこい鼻息。背中で彼女の手が蠢く。ブラジャーが外される。鼓動が早まる。汗と体温。彼女の心臓の音。密着しているとアミの全てが流れ込んでくるようだ。後悔、諦観、緊張、幸福……。それらを直接流し込まれるのは、くすぐったくて時々痛いけれど、でも不思議と心地よい。ずっとこのままでいたい。飲み込まれそうだ。このまま混ざり合ってしまいたい。
でも、これは良くない。いくら望んだこととはいえ自暴自棄のアミに手を出すのは卑怯なんじゃないか。消えかかった良心と理性で辛うじて踏みとどまり唇を離す。でも体と心は繋がりたいらしく、何とか繋がろうと唾液を伸ばしていた。アミは「……あ」と、物足りなさそうで悲しそうな声を上げる。
「こういうの、よくないよ。もっとさ、その……」
アミの目を見られない。見たら落ちてしまう。でも弱った彼女に漬け込みたくもない。理性と本能が乖離して、言葉も行動もチグハグになる。だから、次にどうしていいかも分からない。意味もなく「心が落ち着いた時というか、嫌だったとかじゃないんだけど……」と、まとまらない言葉でワタワタするしかできない。そんな私を見て、アミはすこし笑った。いつもの彼女らしい柔らかい声で話した。
「やっぱり優しいね。じゃあさ、責任じゃなくてお願い」
私の髪をかき上げて、おでこにキスをする。さっきまでの強引さはなく、粘り気もなく、純粋な温もりが伝わってくる。
「一生、一緒にいてよ。もう、私にはミユしか残ってないから」
目を見つめる。少しだけ生気の宿った目は昨日までのものは違っていた。子どもから大人にならされた人間の目。あの日の店長が見せた顔と同じ影をもっていた。
「もうミユしか残ってないから……」
もう一度小さく呟いた。弱弱しい声だった。いつもの周りを引っ張る活力はなくて、今にも崩れそうだ。だから今度は私から唇を重ねる。彼女が崩れてしまわないようにそっと重ねる。依存関係かもしれない。でも今は、アミが壊れないように。
するとそれを待っていたかのようにアミが私を抱き寄せる。それと同時に底なしの心地よさが襲ってきた。アミの中に深く深く落ちてゆく。結局アミにはかなわない。
なんてことない夏の日。蝉すら鳴かない猛暑の昼間。私たちのバンドはひっそりと解散した。
何でもない夏にバンドが解散するだけのお話 @aruzisu
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