黒鉄の商人 ― 江戸の影に潜む
もちうさ
第1話 影の商人
江戸・深川の夜は、川霧に包まれて静かだった。
どこからか炭の匂いと潮風が混じり、運河沿いの町屋の屋根をなでていく。
その霧の中を、一人の男が歩いていた。
神崎宗一郎――武具を扱う商人である。
とはいえ、ただの商人ではない。
彼の取引相手は町人や武家だけでなく、長崎を経てやって来る外国人、
そして時には幕府の影の者たちにまで及んでいた。
宗一郎は、薄墨色の羽織を揺らしながら、ふと立ち止まった。
「……静かすぎるな」
かすかに、水面の方で木がきしむ音がする。
足音ひとつ聞き逃さないのが、彼の習いだった。
桟橋の先に灯りがひとつ、ゆらりと揺れている。
その明かりの下に立っていたのは、異国の男。
ヘンドリック――長崎商館を束ねるオランダ商人だ。
「ようこそ、宗一郎殿」
「夜風が少し冷たいな」
宗一郎は笑みを浮かべ、静かに歩み寄る。
ふたりの会話は穏やかだが、その目の奥では互いに相手の腹を探っていた。
木箱をひとつ、宗一郎が差し出す。
中には、見事な細工の小型火薬が収められている。
「これが、江戸の職人の仕事だ」
ヘンドリックは感心したように指でなぞり、
「なるほど、芸術のようだ」と小さく呟いた。
宗一郎はその手元を見ながら、そっと言葉を重ねる。
「だが、芸術には値がある。――いくら払う?」
ヘンドリックの目が細くなる。
「君の望みは銀ではないだろう? 情報か?」
宗一郎は笑いながら黙っていた。
代わりに、火薬の横に小さな巻物を置く。
「これが欲しい」
ヘンドリックがそれを開くと、そこには幕府の密貿易の動向や、
他の商人の仕入れ先が記されていた。
宗一郎は続ける。
「これさえあれば、江戸の武具の流れは俺が握れる」
しばしの沈黙。
桟橋の下で、水が小さくはねる音がした。
宗一郎の耳がそれを捉える。誰かが見ている。
「……つけられているようだな」
「そうか?」
ヘンドリックの声がわずかに硬くなる。
宗一郎は静かに火縄銃の引き金を指でなぞり、
「いや、心配はいらん」と笑ってみせた。
闇の中で、わずかな足音。
宗一郎はその方向に目を向けるが、すぐに視線を戻した。
敵を警戒しながら、何事もない顔で取引を続けるのが、
この男のやり方だった。
取引を終えると、ヘンドリックが言った。
「君はいつも落ち着いている。怖くはないのか?」
宗一郎は肩をすくめる。
「怖さは慣れるものさ。だが、油断はしない」
桟橋を離れる頃には、霧が少し晴れ始めていた。
宗一郎は足を止め、川面を見下ろす。
月の光が揺れ、まるで銀の糸が流れているようだった。
「江戸の夜は美しい。……だが、誰もがその下で何かを隠している」
小さくそう呟き、宗一郎は再び闇の中へと歩み出す。
その背中は穏やかでありながら、どこか鋭かった。
黒鉄の商人――神崎宗一郎。
江戸の影に生きるその名は、やがて誰もが恐れることになる。
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