逃走と基点

心臓が、氷水で掴まれたかように跳ね上がった。


ユキが振り返ると、そこに立っていたのは、フードを目深にかぶった長身の男だった。

ガラクタ市の喧騒(けんそう)が嘘のように、男の周囲だけ空気がシンと静まり返っている。


「それ、面白いものを見ているね?」


男は、ユキの目の前に浮かぶ【概念鑑定】のウィンドウを、まるで自分にも見えているかのように指さした。


(見えてるのか? いや、それよりも――)


殺気。


肌を刺すような、明確な敵意。

ユキの脳が、鑑定結果よりも先に「死」の危険を察知する。


「その『核の欠片』と、君が今得た情報。どちらも我々が必要なものだ。大人しく渡してもらおうか」


「……ッ!」


選択の余地はない。


ユキは、黒いオーブを握りしめたまま、考えるより先に地面を蹴った。

戦闘スキルを持たない彼にとって、唯一の選択肢は「逃走」だ。


「愚かな」


背後で男が嘲笑う。


ガラクタの山を飛び越え、人混みの中を必死で駆ける。

だが、追っ手は速い。

まるで人混みが存在しないかのように、最短距離で距離を詰めてくる。


(まずい、捕まる!)


焦りが全身を支配する。

その瞬間、ユキの視界が、逃走経路にあるものを次々と捉え、情報が強制的に流れ込んできた。


【 積み上げられた木箱 】

・内包概念:【脆(もろ)い均衡】

・情報:重心が一点に集中しており、僅かな衝撃で崩壊する。


(これだ!)


ユキは振り返り様に、その木箱の根本を蹴り飛ばした。


ガラガラと凄まじい音を立てて木箱が崩れ、追っ手の進路を塞ぐ。


「ちっ……小細工を」


足止めは一瞬。

だが、ユキはその隙に狭い路地裏へと滑り込んだ。


この街の裏道なら、俺の方が詳しい。


【 濡れた地面 】

・内包概念:【粘着性(廃棄されたポーション液)】

・情報:非常に滑りやすい。


ユキはそこを巧みに避け、追っ手が最短距離で踏み込むよう誘導する。

案の定、男は派手に体勢を崩した。


「こいつ……!」


これが【概念鑑定】の片鱗。

物理的な強さではなく、世界の「本質」を見抜き、利用する力。


だが、相手はプロだ。

体勢を立て直した男の速度は先ほどよりも増している。


(ダメだ、追いつかれる!)


息が切れ、足がもつれる。


そしてついに、ユキは高い壁に囲まれた袋小路へと追い詰められた。


「終わりだ、小僧」


ゆっくりと距離を詰めてくる男。

もう逃げ場はない。


絶望が視界を黒く塗りつぶそうとした、その時。


ユキの足が、何かに躓(つまず)いた。


(なんだ……?)


ガラクタ市には不釣り合いな、ただの丸い石ころ。


だが、ユキの【概念鑑定】は、その石が持つ「本質」を見逃さなかった。


【 忘れられた石標 】

・状態:休止中

・内包概念:【古代の転移魔術の基点(座標固定)】

・起動条件:対象の魔力を感知すること。


「……!」


これに賭けるしかない。


ユキは震える手で石標に触れ、自分の持つけして多くはない魔力を、ありったけ注ぎ込んだ。


「何を――馬鹿な、それは起動しないはず!」


男が驚愕の声を上げ、手を伸ばす。


だが、遅い。


カッ、と。


石標が眩(まばゆ)い光を放ち、ユキの全身を包み込んだ。


視界が白く染まり、内臓がひっくり返るような浮遊感が彼を襲う。


光が収まった時、ユキが立っていたのは、埃っぽいガラクタ市ではなかった。


ひんやりとした空気。

滴(したた)る水の音。

そして、微かに漂う獣の気配。


見渡す限り続く、岩と苔(こけ)に覆われた薄暗い空間。


「ここは……ダンジョンの中!?」

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