転生悪役令嬢の筋肉無双
無印のカレー
乙女ゲーム開始前
第1話 令嬢、目覚める。筋肉のない世界で。
目を覚ました瞬間、感じたのは、軽すぎるということだった。
筋肉は、血流が流れ込み、バンプしないうちは、ただの肉の塊に過ぎない。
筋肉の出力は、筋肉と筋繊維稼働率に左右されるようなものだ。
「……なに、これ。なんだこの、ぷにぷにした二の腕は……?」
違和感のままに鏡の前に立つ。
知らない金髪に青い瞳の少女がこちらを見返していた。
年の頃は六つか七つ。頬はつるつる、手足は細く、肩幅は存在を忘れたように華奢。
誰だこのプリチーな生物は。
パジャマを着ていた。
淡いシルクの寝巻は、朝日を浴び、まるで、淡雪のように柔らかく光を帯びていた。
首元に施された繊細なレースの縁取りが、彼女の白い肌をいっそう引き立て、長く垂れた袖は手首の動きに合わせてゆるやかに揺れている。
鏡の前で少女は何度も確認をする。
ポージングを行う。
サイドチェスト。
胸・腕・肩・脚の筋肉を横から見せる基本的なポーズの一つ。
腕が。脚が。腹筋が——まるで風の精霊のように、美しく揺れていた。
それはまるで筋肉という文明が滅びた世界に来たような、そんな喪失を感じさせた。
「嘘だろ……これは……転、生……?俺、死んだのか?」
呟いた瞬間、頭の中に流れ込む不思議な記憶。
“グランディール伯爵の長女クラリッサ”。
──クラリッサだと?
最近、妹に勧められてやっていた乙女ゲームに出てくるキャラだ。
グランディールとは、そのクラリッサの家名の設定だったはずだ。
プロテインをシェイカーしたり、ダンベルエクササイズを検索しながらやったゲームだ。
(確か、ゲーム名は「ザ・レイディー・ファーストキス」)
胸キュン必至のイベント、選択肢によって変わるドキドキの結末。
主人公であるヒロインは 学園生活を送るにあたって、攻略対象を誘惑しまくり、逆ハーレムを築いていくという、王道中の王道の乙女ゲーム。
王子様気取りの優等生、冷静でクールな学園の人気者、熱血で真っ直ぐな剣士……そして、意外な秘密を抱えた少年たち。
何をもって王道なのか、一切、男性ホルモンが答えを出せないタイプのゲームだ。
──クラリッサ・グランディール
王族と婚約し、平民出身のヒロインに断罪され、物語の中で破滅する運命しかない悪役令嬢。
他のルートでもよく死んでいた。気がする。確か。
転生先が、そのクラリッサかどうかの真偽は、後で確認するしかない。
夢なのかもしれないし、夢じゃないのかもしれない。
だが、そんなことはどうでもよかった。
もっとも重要な問題があった。
「ダンベルが、ない。」
部屋を見回す。見事な調度品。豪華なベッド。大理石の床。
だが、鉄がない。バーベルも、ベンチプレス台も、プロテインシェイカーすらも存在しない。
「なんてこった……ここは筋トレ文明以前の世界なのか……?」
筋トレの歴史は深いが、筋トレマシンの歴史は、意外にも浅い。
本格的にトレーニーがマシンを運用しはじめたのは、20世紀に入ってからだ。正確には19世紀末。
まずい。
このままでは「デイリーミッション」がこなせない。
※デイリーミッション……筋トレのノルマ。漸進性の法則に基づいていると、筋トレは、仕事の合間に行うのが習慣となってくる。
思考を整理する。
俺は筋トレオタク。ジムではスクワット200㎏回、ベンチプレス150キロ。デッドリフト230キロ。
ジム仲間から“鉄の聖人”と呼ばれた男。
そんな俺が、今は――ひ弱な令嬢の体に閉じ込められている。
まじかよ。減量期はただでさえ、2000kcalの代謝の牢獄にぶち込まれていたのに、少女かよ……基礎代謝どれくらいだ?この体……600kcalくらいか?
厚生労働省のホームページを確認しなければ
「落ち着け、クラリッサ。いや、俺。筋肉は裏切らない。だが、サボれば離れていく。」
そう。環境がどうであれ、鍛えることはできる。
道具がなければ作ればいい。時間がなければ早起きすればいい。
根性があれば、少女でも筋肉を手に入れられる。
筋肉は、メカニカルテンションをかけた個所に、かけた分だけ作用する。
それは、男だろうが、女だろうが、転生しようが関係ない、絶対不変の法則。
破壊された筋肉は、超回復によって、より強靭に生まれ変わる。
それが、どんな小さな筋繊維でもだ。
「よし、やるか。」
まずは椅子を押し上げる。重い。だが心地いい。
「デッドリフト」の変わり。3㎏ほど。
※デッドリフト……筋トレビッグ3の一つ。背筋を鍛えるトレーニング。
次に椅子を背中の上に乗せ、「プッシュアップ」の体勢を取る。
※プッシュアップ……腕立て伏せ。
クラリッサの身体がぷるぷる震える――限界がすぐ来る。だが笑っていた。
「全然動かねえ……悲しいが、いいね……これだよ……これが“生きてる”って感じだ……!」
召使いが扉を開けた。
「お、お嬢様!? 何をなさってるんですかっ!?」
「うおおおおお!!!!」
「意識を失う程の病だったんですよ!!ベッドでお休みになられてください!!」
「うるせー!!じゃますんじゃねえ!!バルクが冷める!!椅子が落ちたら危ねえだろうが!!!」
その日、グランディール伯爵家の屋敷に奇妙な噂が流れた。
“伯爵令嬢が、朝から椅子を持ち上げて笑っていた”と。
そしてその日を境に、クラリッサ・グランディールの運命は静かに狂い始める。
――筋肉によって。
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