万年筆は、死者の名前を書く ――35年間、夫は妻の名前を呼ばなかった

ソコニ

第1話 鏡を閉じる方法

妻は私の小説を読まなかった。

結婚三年目の秋、書き上げたばかりの原稿を見せたとき、妻は三ページ目で読むのをやめた。「あなたの文章には体温がない」そう言って、原稿を机に戻した。丁寧に、几帳面に、原稿用紙の角を揃えて。

以来、私は妻に原稿を見せなくなった。そして妻は、書斎のドアをノックするだけになった。三回、規則正しく。だが扉を開けることはなかった。三十五年間、一度も。

妻が死んだのは、初夏の朝だった。庭の薔薇に水をやっている最中に、倒れた。救急車を呼んだが、間に合わなかった。心筋梗塞。六十二歳。

葬儀の後、私は妻の遺品を整理した。寝室の引き出し、クローゼット、洗面台の下。だが妻の万年筆が見つからなかった。

モンブランの149。黒軸に金の装飾。妻が三十年使い続けた万年筆。妻は毎朝、その万年筆で日記を書いていた。私はその日記を読んだことがない。妻は私に見せなかった。

万年筆を見つけたのは、妻の死後三ヶ月目の朝だった。

書斎の引き出しの奥。私の原稿用紙の下に、埋もれていた。

なぜここに。

手が震えた。妻は私の書斎に入らなかった。三十五年間、一度も。

私は万年筆を手に取った。ずしりと重い。妻の体温が残っているような錯覚。キャップを外すと、インクの匂いがした。

試しにノートに線を引いてみる。インクは乾いていなかった。滑らかに、青黒い線が延びる。

妻の筆跡を真似てみようと思った。だが手が動かない。指が万年筆を拒絶しているような。

その時、ノートに文字が浮かんだ。

私が書いたのではない。だが私の手が、勝手に動いて書いた。

「あなたは私を見ていなかった」

妻の字だった。

私は万年筆を机に置いた。だが置いた瞬間、万年筆が転がり、床に落ちた。

拾おうとして屈む。万年筆の影が、床に落ちている。だがその影は万年筆の形をしていない。

人間の指の形をしていた。

長い指。女性の指。

薬指に、指輪の痕。

その夜、私は妻の日記を探した。

妻の部屋――私たちは十年前から別室で寝ていた――のクローゼットの奥に、段ボール箱があった。中には、ノートが三十冊以上詰まっていた。

すべて妻の日記だった。

私は最初のページを開いた。日付は三十二年前。結婚した年だ。

「今日、彼は書斎にこもったまま出てこなかった。夕食を作ったが、声をかけるのをためらった。彼の集中を邪魔したくなかった。結局、夕食は私一人で食べた。彼の分は冷蔵庫に入れた。翌朝、彼の分は手つかずのままだった」

心臓が痛んだ。私はそんなことをしていたのか。

次のページ。

「彼は私に原稿を見せてくれた。嬉しかった。だが三ページ読んで、私は言葉を失った。そこに書かれた妻は、私ではなかった。彼が見ている妻。彼が理解している妻。だが私自身ではない。私は『体温がない』と言った。本当は『私がいない』と言いたかった」

万年筆が、机の上で震えた。

私は日記を閉じようとした。だが閉じられない。ページが勝手にめくれていく。十年後。二十年後。

「彼は今日も書斎にいる。私は庭で薔薇に水をやった。薔薇には名前がある。私が勝手につけた名前。エマ、ルイーズ、クララ。彼は薔薇の名前を知らない。彼は私が薔薇に話しかけることを知らない。彼は私の半分も知らない」

最後のページ。妻が死ぬ三日前の日付。

「私はもうすぐいなくなる。それはわかっている。心臓が教えてくれる。だが彼には言わない。彼は私の死を、また小説の素材にするだろう。彼はすべてを素材にする。それが彼の生き方だから。私は彼を恨んでいない。ただ悲しい。三十五年間、彼の隣にいたのに、彼は私を一度も見なかった」

最後の一文。

「私の万年筆を、彼の書斎に置いてくる。彼がそれで私を書くとき、私は初めて彼に見られる」

日記が私の手から落ちた。

そして書斎から、ペンが紙を擦る音が聞こえた。

書斎に戻ると、万年筆が動いていた。

誰も持っていないのに。宙を這うように、原稿用紙の上を移動し、文字を書き続けている。

私は近づいた。万年筆が止まった。だがペン先は、まだ紙に触れている。

書かれた文章を読む。

「男は妻の日記を読んだ。そして初めて、妻を知った。だが遅すぎた。知るべきは、妻が生きている間だった」

私は声を出した。「知りたかった」

万年筆が動く。

「嘘だ」

「嘘じゃない」

「では、なぜ私の名前を一度も呼ばなかった」

私は答えられなかった。

妻の名前。

私は妻を「君」と呼んでいた。三十五年間、名前で呼んだことがない。

なぜ?

わからない。いや、わかっている。名前で呼ぶと、妻が固有の人間になってしまうから。私の外部にいる、私が支配できない他者になってしまうから。

万年筆が、また書く。

「私の名前は、晴子」

私は泣いた。

三十五年の結婚生活で、初めて泣いた。妻の葬儀でも泣かなかった。だが今、万年筆が書いた五文字を見て、涙が止まらなかった。

晴子。

私は妻の名前を、三十五年間、一度も声に出して呼ばなかった。

「晴子」

そう呟いた瞬間、書斎の空気が変わった。

万年筆が宙に浮き上がる。ゆっくりと回転しながら、私に近づいてくる。

そして私の左手首に、触れた。

冷たい金属の感触。だがそれは次第に温かくなる。

万年筆が私の手首の内側に、何かを書き始めた。インクが皮膚に染み込む。

痛みはない。ただ、熱い。

書き終わったとき、私は手首を見た。

そこには、小さな文字で書かれていた。

「あなたを許す」

晴子の字だった。

私は崩れ落ちた。床に座り込み、声を上げて泣いた。

許されるはずがない。私は晴子を見なかった。晴子の名前を呼ばなかった。晴子を、ずっと素材として扱ってきた。

だが晴子は、私を許すと書いた。

なぜ?

万年筆が、床に落ちた原稿用紙に書く。

「あなたは私を見なかった。でも私は、あなたを見ていた。三十五年間、ずっと。あなたの背中を。あなたが書斎で原稿に向かう姿を。あなたの孤独を。あなたが私に気づかないことを知りながら、私はあなたを見続けた。それが私の愛だった」

私は手首の文字をなぞった。インクが、まだ湿っている。

「でも今は違う」

万年筆が続ける。

「あなたは私の名前を呼んだ。三十五年遅かったけれど、あなたは呼んだ。だから私は、あなたに見られる」

書斎の空気が、ゆっくりと光を帯び始めた。

窓から差し込む朝日ではない。空間そのものが発光している。

そして光の中に、人影が浮かび上がった。

晴子だった。

だが顔が見えない。輪郭だけがある。光で縁取られた、人間の形。

晴子が、私に近づく。

私は立ち上がろうとしたが、足が動かない。

晴子が私の前にひざまずく。そして私の顔を、両手で包んだ。

温かい。

晴子の体温。

「見て」

晴子の声が、直接頭の中に響く。

「私を、見て」

私は晴子の顔を見ようとした。だが見えない。光が強すぎる。

いや、違う。

私が、見ることを拒否している。

三十五年間の習慣。妻を見ない習慣。それが、今も私を支配している。

「怖い」

私は言った。

「見るのが、怖い」

「なぜ?」

「見たら、君が消えてしまう気がする」

晴子の手が、私の頬を撫でた。

「逆よ。見なかったから、私は消えたの。あなたが見てくれていたら、私は消えなかった」

私は目を開いた。

晴子の顔が、見えた。

六十二歳の晴子ではなかった。二十五歳の晴子。結婚した年の晴子。

そして三十歳の晴子。四十歳の晴子。五十歳の晴子。すべての年齢の晴子が、同時に存在していた。

私が見なかったすべての晴子が、今、ここにいた。

「あなたは私を書こうとした」

晴子が言う。

「でも書けなかった。なぜなら、あなたは私を知らなかったから。知らないものは、書けない」

「今なら、書ける」

私は言った。

「今なら、君を書ける」

晴子が微笑んだ。

「書かなくていい」

「え?」

「書かないで。書いたら、私はまたあなたの物語になる。あなたの言葉の中に閉じ込められる。そうじゃなくて」

晴子が私の手を取った。

「私と一緒に来て」

晴子が私を、原稿用紙の上に導いた。

私は抵抗しなかった。

原稿用紙の白い平面が、広がっていく。床ではなく、空間そのものが原稿用紙になっていく。

そして私たちは、その中に入っていった。

白い世界。

だが白は空虚ではなかった。白は可能性だった。まだ何も書かれていない、あらゆることが書かれうる空間。

晴子が私の手を引く。

「ここでは、書かれることと存在することが同じなの」

私は自分の手を見た。輪郭が曖昧になっている。線画のように。

だが怖くなかった。

晴子も同じだった。私たちは二人とも、線だけの存在になっていた。

「これから、私があなたを書く」

晴子が言った。

「私の視点で。私が見たあなたを」

万年筆が現れた。晴子の手の中に。

晴子が、空中に文字を書き始める。

「彼は孤独だった。私と一緒にいても、孤独だった。彼の孤独は、書くことでしか埋められなかった。私はそれを知っていた。だから邪魔をしなかった。だから距離を置いた。それが私にできる、唯一の愛だった」

私の輪郭が、書き換えられていく。

晴子が見た私に。

「彼は不器用だった。愛し方を知らなかった。だから彼は、書くことで愛そうとした。でも彼は気づかなかった。書くことは、対象を固定することだと。固定された愛は、もう愛ではないと」

私は言葉を失った。

晴子は、すべて知っていた。

私が知らなかった私を、晴子は知っていた。

「今、私があなたを書き終えたら、あなたは私の物語になる。私の視点の中で、存在することになる。でも怖がらないで」

晴子が私を抱きしめた。

線だけの身体。だが温かい。

「物語の中で生きることは、不幸じゃない。誰かに見られて、誰かに理解されて、存在することは、幸福よ」

私は晴子を抱きしめ返した。

「ごめん」

「謝らないで」

「ごめん。君を見なくて。君の名前を呼ばなくて」

「いいの」

晴子が私の背中に手を回す。

「今、あなたは私を見てる。それで十分」

白い世界が、ゆっくりと色を帯び始めた。

だが色は現実の色ではなかった。言葉の色。インクの色。

私たちは、物語の中にいた。

晴子が書いた物語の中に。

そしてそれは、私が書こうとして書けなかった物語だった。

晴子が最後の一文を、空中に書く。

「二人は消えた。でも消えたのではない。二人は、互いの中に入り込んだ。彼女は彼を書き、彼は彼女を見た。そして二人は、初めて同じ場所にいた」

白い世界が収束する。

私たちは、原稿用紙の上にいた。

いや、私たちは原稿用紙そのものだった。

白い紙の上に、インクで書かれた二つの人影。

抱き合っている人影。

そして万年筆が、そっと紙の端に置かれた。

――三ヶ月後。

近所の人が異変に気づき、警察が書斎の扉を破った。

室内に、老人の姿はなかった。

だが机の上に、一枚の原稿用紙があった。

そこには二つの人影が描かれていた。男と女。抱き合っている。

絵ではなかった。文字で描かれていた。無数の文字が、人間の形を形成していた。

警官の一人が、原稿用紙を拾い上げた。

文字を読もうとして、目を凝らす。

だが文字があまりに小さく、あまりに密集していて、読めない。

虫眼鏡を持ってこさせて、ようやく一部が読めた。

「晴子。ごめん。愛してる」

その三つの言葉が、何千回も、何万回も、繰り返されていた。

原稿用紙全体を覆い尽くすまで。

そして原稿用紙の隅に、万年筆が置かれていた。

モンブランの149。

警官がそれを手に取ろうとした瞬間、万年筆が崩れた。

灰になって、崩れ落ちた。

まるで、役目を終えたかのように。

原稿用紙も、同時に色を失い始めた。

インクが薄れていく。人影が消えていく。

警官たちが見守る中、原稿用紙は完全に白紙に戻った。

何も書かれていない、白い紙。

だがその紙を光に透かすと、かすかに跡が見えた。

二つの人影の、残像。

それは見る者によって、違うものに見えた。

ある警官には、抱き合う男女に見えた。

ある警官には、薔薇の花に見えた。

ある警官には、ただの染みに見えた。

――後日、老人の親族が書斎を整理した際、妻の日記が発見された。

最後のページには、こう書かれていた。

「私はもうすぐいなくなる。でも悲しくない。私は彼を見続けた。三十五年間、ずっと。それが私の人生だった。そして彼がいつか、私を見てくれると信じていた。たとえそれが、私が死んだ後だとしても」

その下に、別の筆跡で一行、書き加えられていた。

インクの色が違う。新しい。

「見たよ、晴子。遅すぎたけれど、見た」

だがそれは誰が書いたのか、わからなかった。

書斎には誰もいなかったのだから。

あなたがこの物語を読み終えた今、あなたの隣に誰かがいるなら、その人の名前を呼んでみてください。

そしてその人を、見てください。

本当に、見てください。

物語の中の人としてではなく。

あなたの言葉の中の人としてではなく。

あなたの外部にいる、決してあなたのものにならない、他者として。

それができたなら、あなたは万年筆を必要としない。

でももしできないなら。

いつか、あなたの書斎にも、万年筆が現れるかもしれない。

あなたが見なかった誰かの、万年筆が。

そしてその万年筆は、あなたに問うだろう。

あなたは誰を見なかったのか、と。

――物語は、そこから始まる。

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