第5話 非日常へのステップ

見学会の日の朝。滅多に津田沼から出ない菜穂子は東京に行くということだけで朝からピリピリしている。子どもたちに対して準備が遅いとか、服の着方がだらしないとか、事細かに指摘している。俺からは子ども達はいつもと変わらないように見えるのだが、相手側に気に入られなければならないというプレッシャーが彼女をいつもより厳しくしているようだ。


電車を乗り継いで広尾駅に着いたのが約束の30分前。ここから10分くらい歩くみたいなのでちょうど良い時間か。来る途中で翔太は「まだ着かないの」って何度も言っていたが、こいつも都内の中学に合格すれば毎日この距離を通学しなければならなくなる。それを考えると住まいを都心近くに変えるのは悪くないのではないかと思えてくる。


駅を出るとビラを配っている一団がいた。俺は無視をして通り過ぎたが沙耶が受け取ったようで、「パパ、これ」と言って俺に見せてきた。


  「ペアファミ住宅反対! 国民の血税を無駄に使うな!」


と書かれている。確かに最近、テレビや新聞でこの話題を聞くことが多い。今までは他人事だったので流していたが、今後は自分に降りかかっているかもしれないということか。ビラを配るくらいなら良いが、子ども達に悪影響があるのだけは避けたい。


緩やかな坂道を5分ほど行くと大きなマンションが見えてきた。今日は日差しが強いが、街路樹がずっと日陰を作ってくれていて坂を上っていても苦にならない。自分は毎日最寄駅から15分は歩いているのだ。歩くのは嫌いではないが、朝から真夏日の猛暑の中や、寒風吹きすさぶ真冬の中では健康にも良いわけがない。ここを毎日歩いて通うのかと思うと思いがけず心が高揚してくる。


対象物件のあるA棟の入り口にスーツを着た女性が立っている。不動産会社の担当だろう。近づいて行くと、


「ようこそいらっしゃいました、神永様。ご案内いたします」


そう挨拶すると、我々をエレベータに乗せ最上階のボタンを押した。エレベータは動いているかどうかわからないくらいのスムースさで昇って行く。エレベータを降りたところにも担当者がいる。下の女性と同様に耳にはヘッドセットを付けていて、それで連絡を取り合っているのだろう。


エレベータを降りると玄関ドアが二つ。フロアに二世帯だけなのか。それを見ている様子に気が付いた担当者が説明する。


「このどちらからもお入りいただけます」


「え、中で繋がっているということ?」


「はい、お客様にはこのフロア全体をお使いいただく形になっております。こちらがメインの玄関でして、こちらは勝手口のようなものでございます」


「はぁ」


よく見ると、一つは豪華な造りで、もう一つは比較的質素なドアだ。


担当者が玄関の方に向かい持っていたカードを近づける。カシっと小さな音がした。


「え、もしかしてそれが鍵なの?」


翔太が思わず訊く。


「はい、スマートロックになっていまして、この非接触カードで開けることができます。あと、お望みであればスマフォに専用のアプリをインストールしていただければそちらでも解錠可能です」


「へー、すげー。超カッコいい」


ちょっとオタク気質のある翔太は理解したようだが、菜穂子はわかっていないようだ。眉間にしわを寄せて玄関の取っ手のあたりを睨んでいる。


「では」


ちょっと芝居掛かった感じでそう言ってドアを開けようとすると、


「ちょっと待って」


菜穂子が大きな声を出した。


「おい、どうした」


慌てて問いただす。俺の言葉を無視し、担当者に向かって訊いた。


「あの、もう一組みのご家族はもういらっしゃっていますか?」


少しぎょっとした顔になっていた担当者はそれを聞いて少し表情を和らげた。そして


「いや、まだでございます。先ほど連絡がありまして少し遅れるとのことなので、まずは神永様を先にご案内差し上げています」


と説明した。


「あ、なら良いけど」


その言葉に促されるように担当者はドアをあけ、我々を導き入れた。


靴を脱ぎながら菜穂子の方を見ていると、


「だってしょうがないじゃない。心の準備というものがあるのよ。あなたもしっかりしてね」


はあ。どこまでも緊張しているようだ。


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