第15話 異世界の人魚姫
地方のアパレル系企業に勤務する
「心の結びつきこそ真の愛よ。性別は大した問題じゃない」
と敦子は言った。
静香は嬉しかった。自分もその通りだと思った。
「敦子の子供が欲しい」
深く愛し合うほど、その結晶を求めたくなるのは、当然のことだ。
たとえ無理だったとしても。
ただ、そんな願いとはうらはらに、不幸は突然やってきた。
夏の河原で行われた職場のバーベキュー大会で、敦子が遊泳中に流されたのだ。
静香は敦子を助けようとして、共に溺れた。
一度はつかんだ敦子の手を、水流に抗しきれず、放してしまった。
「自分がもし人魚みたいに泳ぎがうまかったら!」
と静香は、薄れゆく意識の中で思った。
命が消える瞬間の強い思念が、人を別の世界に生まれ変わらせるという。
静香の場合が、まさにそうだった。
静香は無数に存在する異世界の一つに、メイという名の人魚として転生した。
◇ ◇
静香が再び生を受けたのは、広大な大陸の山岳地帯。
人のめったに訪れない、険しい山々の狭間にある、大きな湖だ。
湖の名はワタ湖。
湖水が美しく澄んでいて、神秘の湖と言われていた。
ワタ湖の湖底では、人魚たちがひっそりと暮らしていた。
平和だが、外界との接触はなく、閉じられた世界だった。
そのせいか、人魚の中には、時々外の世界に興味を抱く者もあった。
若く美しい人魚のメイもまた、その一人で、
真夜中の湖面に身を浮かせて、空に瞬く星々を眺めながら、
「湖の外ってどうなっているんだろう。あの空の下にも同じように世界が広がっているのかな。だったら、行ってみたいな」
と未知の世界に思いを
メイは前世の記憶こそ無いものの、静香だった頃の記憶の
さて、ワタ湖からは、ラク川という名の川が流れ出ている。
遠い昔、人魚一族の祖先が、遥かな海からラク川を遡り、ワタ湖にやってきたという伝説が、語り継がれていた。
「海って、どのくらい大きいの?」とメイは母に聞いた。
「この湖とは比べものにならないほど大きくて、深くて、たくさんの生き物に満ち溢れた素敵な世界だと聞いているわ」と母は答えた。
その話を聞いて、メイはぜひ海へ行ってみたいと思った。
「ねえ、お母さん。ラク川を下って行けば、海に着けるんだよね」
「でも、メイ、それはとても危険なことよ。かつてあなたと同じように考えて、ここを出て行った者が、何人かいるけれど、だれも帰ってこなかったの。おそらく途中で命を落としたのでしょう」
無事に海まで行けたなら、一人くらい故郷のワタ湖に戻って来てもいいはず。
だれも戻らないのは、つまり、今はもう川は海に通じていないのでは、と母は考えていた。
「余計な好奇心は起こさないで、この湖で静かに暮らすことよ」
と母は諭した。
しかしメイは、母の助言を聞かず、新月の晩に、そっと湖底の住み家を離れて、湖面に浮かび上がり、闇夜にまぎれて、ワタ湖を源とするラク川の流れに身を任せた。
メイは一晩中、ラク川を下り、東の空が白み始める頃には、生まれてこの方見たことのない、美しくも広大な景色を目の当たりにした。
「世界ってこんなに広かったんだ」
メイは更に川を下った。
「きっと、海に出られるわ」
そう信じて。
予想は当たらなかった。
下流へ行くほど、水量が減っていき、ついには河床に腹ばいになっても、背中とヒレが、水面をはみ出るほど、水深が浅くなった。
危険だと気づいた時点で、引き返せばいいものを、
「せっかくここまで来たのだから……」
という思いから、下り続けてしまった。
ついに水流は砂地に吸い込まれて、そこかしこに、大小の水たまりを残すのみとなった。
「川がなくなっちゃった……」
川の途切れた先には、砂漠が広がっていた。
人魚は水がなければ、生きていけない。
やむなくメイは、腹ばいになって、流れのある上流まで引き返そうとしたが、砂地にヒレや腹がこすれて痛く、体力を消耗するばかり。
日がいよいよ高くなると、河床の水気もすっかり蒸発し、カラカラの砂地になってしまった。
風に砂塵が舞って、砂が目に入る。
かつては河床だった砂地に、白くて細い棒のようなものが突き出ていた。
よく見れば、なにかの骨だった。
長い髪が張り付いた頭骨もあった。
周囲にはパラパラと乾いたウロコが散らばっている。
かつてメイのようにラク川を下った人魚のなれの果てだった。
メイは恐ろしさに、身を震わせた。
灼熱の太陽が真上に輝き、ハゲタカが何羽も空をぐるぐる旋回している。
「喉が渇いちゃった。体も焼けるように熱い」
初めのうちは川底の砂を掘って、湧き出した水を飲んでいたが、それもすぐに出なくなった。
もはやメイは、岸に打ち上げられた魚同然だった。
照り付ける強烈な日差しが、メイの体力を急速に奪っていく。
浅はかな好奇心が、死への扉を開いてしまった。
メイは激しく後悔した。
「わたし、死ぬのかな。海なんて目指さなければよかった」
メイの意識は、徐々に遠のいた。
日差しに焼かれ、砂埃にまみれ、いよいよ命の危険が迫ろうとしていた時、一人の若者が荒涼たる砂の海を、荷を積んだ数頭の
すらりとした体に、ゆったりした白布の長衣を
一見砂漠の旅商人にも思えたが、左の腰に吊るした剣の見事な彫金は、持ち主が卑しからぬ身分の者であることを示していた。
若者は、水を求めてラク川へ立ち寄り、半ば砂に埋もれつつあった、息も絶え絶えの人魚のメイを見つけた。
「干上がった砂漠の川に人魚とは。まだ息があるようだが」
若者は、メイを駱駝の背に乗せ、ラク川の上流を目指し、水がまだ流れている場所に達すると、川にそっと戻した。
メイは息を吹き返し、目の前の若者が自分を助けてくれたのだと知って、心からお礼を言った。
「助けてくれて、ありがとう。わたしは、メイ。上流のワタ湖から、ラク川を下って来たの」
「ぼくは、シン。砂漠に人魚とは驚いたよ。人魚って、海にいるものと思ってたから」
「海を見たことがあるの?」
「ああ。ぼくは海辺の街からやってきたんだ」
「あの、わたし、海が見たいの。もし良かったら、一緒に連れて行ってくれない?」
「海は遠いよ。何日もかかる。それにキミはまだ十分回復していないし、人魚は砂漠の旅に耐えられない。キミは一旦国に帰るべきだよ」
「わかった。でも、シン。もう一度、わたしと会ってくれない? お礼もしたいし」
「じゃあ、月が完全に満ちる時に、またこの場所に寄るよ。ぼくは辺境国のニケまで行かなければならなくてね。その帰りに再会しよう」
「わかった。待ってるね」
メイは再びラク川を遡上し、ワタ湖に帰った。
心配していたメイの家族は、胸をなでおろした。
しかしメイの心はシンのことで一杯だった。
次の満月にまたシンに会える。そうしたら海に連れて行ってもらおう。
ただし人魚のままでは砂漠は越えられない。
「人間にしてほしい」
とメイは一族の長老に頼みに行った。
人魚族に伝わる魔法の秘薬を使えば、人間になれると聞いたからだ。
「メイよ、そなたの決心が固いのはわかった。ただし覚えておきなさい。人間になってから、一年以内に愛する人の子供を身ごもらなければ、泡となりこの世から消え去ってしまうことを」
と告げ、秘薬をメイに授けた。
満月が近づくと、メイは引き止める家族に別れを告げて、再びラク川を下り、
シンと別れた約束の川辺で、秘薬を飲んで、美しい人間の女性になった。
大きなヒレは、スラリと長い二本の足に変わり、もう地面を歩くことができる。
メイが新しい足に喜んで、ぴょこんと飛び跳ねたり、立ち止まって、足をしげしげ眺めたりしていると、まもなくシンがやって来た。
「シン、待ってたよ。よかった。来てくれて。これ、この前、命を助けてくれたお礼よ」
そう言って、メイはシンに駆け寄って、価値ある綺麗な玉石を、幾つも渡した。
玉石はワタ湖の湖底でよく見つかるのだった。
「お礼なんて、いいのに。それにしても、メイ、驚いたよ。キミ、人間になったんだね」
「ええ。人魚一族に伝わる魔法の秘薬を使ったの。シン、お願い。わたしを、一緒に海へ連れて行って。あなたの故郷の町へ」
「うん。わかった。一緒に行こう」
「ありがとう」
二人は長い日数をかけて砂漠を渡った。
何日目かの晩に、メイはシンに抱かれた。
メイは、命を救われた時から、シンに好意を抱き続けていた。
ようやく念願が叶って、一つになれたのだ。
悦びで天にも昇る気持ちだった。
しかしメイは愛するシンの体に、二つのやわらかいふくらみと、潤いの泉を認めて、びっくりしてしまった。
シンは女性だった。
「初めて会った時は、確かに男性だと思ったのに。勘違いだったのかな?」
とメイは戸惑った。
「実は、女の子の体にしてもらうために、辺境国ニケの魔法使いを訪ねたんだ。莫大な富と引き換えにね」
とシンはメイに打ち明けた。
シンは、遥か西方の湾岸一帯を治める、コチという王国の第六王子だと、身分を明かした。
今、国王が病に伏し、次の王の座を巡って、骨肉の争いが勃発しているのだという。
「ぼくはまつりごとにも、権威にも興味がなくてね。なのに、王子である以上、
「そうだったの……」
「体は女性になったけど、ぼくはぼくだよ。なにもかわらない。むしろ違和感が消えた。これが本当の自分だって感じるよ」
二人は駱駝の背に揺られ、広い砂漠を横断した。時に野営し、時にオアシスの町に寄り、長い旅を続けるうちに、何度も愛し合い、互いの心は深く結びついた。
メイは自分を特に同性が好きだと思わなかったけれど、ワタ湖の人魚一族は、女性の割合が多く、互いに愛し合うことも、珍しくなかったから、抵抗はなかった。
むしろ体を重ねるごとに、もしかしたら、自分は生まれる前から、女の人を愛していたのかもしれないと感じるようになった。
シンとの交わりで、
メイは、その心地よさと幸福感を、遠い昔に味わったような気がした。
「心の結びつきこそ、本物の愛だよ」
とシンは真顔で言った。
メイはその言葉を、以前どこかで聞いた気がしたが、思い出せなかった。
二人は、何日もかけて、ようやくシンの故郷、コチ王国に到着すると、街は北方の蛮族の襲来を受け、廃墟と化していた。
蛮族たちは、破壊と略奪の限りをつくした後、再び北へ引き上げて行ったらしい。
「内乱に乗じて、一気に攻め込まれたのだろう。王族同士で争っている場合ではなかったんだ」
とシンは悔しそうに言った。
街に人の気配はない。皆、殺されるか、逃げるかしたらしい。
コチの王城は燃やされ崩れて瓦礫となり、シンの身内はどこにも見当たらなかった。
シンとメイは、港に向かった。
波止場は、襲撃で燃やされた船の残骸が、あちこちに散らばり、貿易船でひしめいていたかつての繁栄は見る影もない。
見るも無残な街を背に、シンとメイは波止場にたたずみ、海を眺めた。
ただ波の音と、海鳥の鳴き声が聞こえるだけだ。
長年の夢が叶って、ようやく海が見られたけれども、愛するシンの心情を思えば、当然、素直に喜ぶ気持ちにはなれなかった。
「どうだい、メイ。初めて海を見た感想は」とシンが言った。
「これが海。なんて大きいの。一体どこまで続いているのかしら?」
「だれも果てまで行ったことはないけど、最後は滝になって、流れ落ちているという話だよ」
もし自分が人魚のままだったなら、どこまでも泳いで行きたいと思っただろうけれど、先が滝になっているのなら、無理だなとメイは思った。
日はやや西に傾きつつあった。
「おそらく生き残った王族や家臣たちは、南南東にある同盟国、カラ王国に向かったはず。ぼくたちもそこを目指そう。崩壊した街に長居は無用だよ―――あっ、危ない!」
突然、そう叫ぶと、シンは目にも留まらぬ速さで、腰の剣を引き抜き、メイに向かって飛んできた矢を薙ぎ払った。
矢は真っ二つになって、地面に落ちた。
続けて二本、三本と、飛んでくる矢を、シンはことごとく、剣で払い落とす。
その身のこなしは、達人のそれだった。
「やはりな。廃墟をよからぬ
波止場から少し離れた倉庫の陰から、六人もの蛮族が姿を現した。
いずれも大柄でがっしりした体躯の男たちだ。
本隊が去った後も、街に残って、金目のものを物色していたらしい。
ある者は毛皮を纏い、ある者は拾い集めたような鎧を身につけ、いかにも辺境から出てきたと言わんばかりだ。
それぞれ幅広の蛮刀を手に近づいてくると、たちまちシンとメイを取り囲んだ。
シンは囲まれても、動揺を見せない。
「大丈夫、心配しないで」
とおびえるメイに優しく声をかけた。
「メイ、目をつむって。ぼくから離れないようにね」
「うん……」
危急存亡ともいえる時に、目を閉じよとは妙な話だが、メイはすなおに従った。
それほどシンを信頼していた。
しばし
――― 秘剣月輪 ———
シンがそうつぶやいた瞬間、彼の手にした剣が一閃、シャープな円を描いて煌めいた。
まるで時間が止まったかのように、辺りが静まり返った。
「もう安心だよ、メイ」
とシンが落ち着いた声で言った。
メイがゆっくり
シンは六番目の王子だったが、たぐい稀な素質から、王宮お抱えの剣の師範から、一子相伝の剣技を授けられていたのだ。
危機を脱した後、シンは仲間が落ちのびたと思われる、カラ王国へ行こうと提案したが、メイは浮かない顔で「そうね」と、曖昧な返事をするだけだった。
メイが人間になってから、すでに五か月ほど経っていた。
このまま子供を身ごもることなく、一年が経過すれば、泡になって消えてしまう運命なのだ。
シンは最愛の人だが、女性になってしまったから、いくら愛し合っても、子供はできない。
懸念を残したまま、また別の場所へ移動するのは、時間が無駄になりそうで、ためらったのだった。
「メイ、どうしたんだい?」
シンが心配して尋ねると、メイは事の
「ああ、なんてことだ。もう、ぼくは女だから、キミをどれだけ愛しても、身ごもらせてあげられない。『心の結びつきこそ、本物の愛』と言っておきながら、キミを救うことができないなんて!」
とシンは嘆いた。
ニケの魔法使いからは、一度女になれば、再び男には戻せないと言われていた。
「人魚一族の長老なら、なにか方法を知っているかもしれない」
とメイは思った。
シンとメイは駱駝に乗り、再び長い日数をかけて、メイの故郷である、ワタ湖に向かって、砂漠を旅した。
二人は、道中の困難を乗り越え、ラク川に至ると、川岸を上流へ向かい、ようやく人魚の湖に達した。
初めてワタ湖を訪れたシンは、この世のものと思えないほどの、美しい景色に、心を奪われて、湖畔に立ち尽くした。
山頂に万年雪を冠した、神々しいまでに雄大な峰々が、眼前にそびえ、湖周辺には緑の木々が生い茂り、多くが赤や黄色の花を咲かせていた。
それら見事な景色を、青く澄んだ湖面の鏡が映している。
「ここは、現実の世界なのか?」
とシンは思わずつぶやいた。
メイはそんなシンに微笑みながら、湖に向かって、ハミングを発した。
透き通る高い声が、清澄な空気を震わせて、遠くまで響いて行った。
やがて湖の底から、人魚が現れた。
メイの母親だった。
メイは岸辺で母と抱き合った。
長い抱擁の後、メイは母にシンを紹介し、ことの経緯を伝えた。
話を聞いた後、一度、湖底に潜った母親は、長老から、二つのものを預かってきた。
右手には短剣、左手には薬瓶を持っていた。
「さあ、メイ。あなたは、選ばなければならない。このままなにもしないで、死を待つか、薬を飲んで人魚に戻るか、それとも、これはシンしだいだけれど、この短剣であなたのお腹を突き刺してもらうか」
「そんな……」メイは困惑した。
「ぼくがメイに剣を……なぜです?」とシンは尋ねた。
「もしあなたたちの愛が本物ならば、突き刺した短剣は、メイのお腹に新たな
メイは母親から短剣を受け取り、シンの手に握らせ、切っ先を自らの下腹部へといざなった。
メイは真剣な眼差しで、シンを見つめ「お願い」と促した。
「そうだね、迷いはない。『心の結びつきこそ、本物の愛』だ。ぼくは、キミを心から愛している」
シンはそう言って、腕に力を込め「えい!」と一息にメイのお腹に、短剣を突き立てた。
「ああっ!」
一声甲高く叫んで、メイは気を失った。
刃は深々と刺さったが、血は一滴も流れず、
短剣は粉々になって消え、なんの傷痕も残さなかった。
メイはシンの子供を身ごもった。
二人の真の愛が、今ここに実を結んだのだ。
やがて
女の子は、人魚一族の長老によって、イリスと名付けられた。
「イリスよ。そなたは大きくなったら、広い世界を旅して、多くを学び、やがて一国の
と長老は予言した。
メイたち一家は湖のほとりで、人魚たちに見守られながら、幸せに暮らした。
イリスは、いつか成長したら、予言通り旅立ちの日を迎え、
苦難の冒険の果てに、愛の国を築き上げるにちがいない。
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