日常のズレ― The Fractured Ordinary ―
神田 双月
帰れない家
終電が発車する音が、夜の駅に響いた。
田嶋悠斗は、疲れ切った足取りで改札を抜けた。
金曜の夜。
同僚との飲み会を断り、真っすぐ帰るつもりだった。
家まで徒歩十五分。
冬の冷たい風が頬を刺す。
コートのポケットでスマホが震えたが、画面には通知もない。
電波の乱れか、と気にも留めず歩を進める。
⸻
マンションの前に着く。
築五年の、無機質な灰色の外壁。
いつものように、オートロックにカードキーをかざす。
ピッ、と軽い電子音。
自動ドアが開いた。
エレベーターの中、鏡に映る自分の顔をぼんやり見つめる。
青白い顔。疲れた目。
それでも「やっと帰れる」と思った瞬間、ふっと安心感が湧いた。
5階の自室、502号室。
鍵を差し込み、ドアを開ける。
──ただいま。
反射的に声を出す。
部屋は静かだ。
一人暮らしだから当然。
リビングの電気をつけると、白い明かりが部屋を満たした。
すべてが、いつも通りだった。
⸻
上着をソファに放り、テレビをつける。
ニュースキャスターが淡々と話している。
テーブルの上には朝出たときのマグカップ。
洗い忘れていた。
……やっぱり、家が一番落ち着く。
そう思いながら、冷蔵庫を開ける。
ビールの缶が三本。
カレーの残り。
冷凍ご飯。
何もおかしくない。
だが、ひとつだけ妙な違和感があった。
冷蔵庫の中の缶ビールが、すべて左向きに整列している。
自分はそんな几帳面じゃない。
気味が悪いが、誰も入るはずがない。
鍵も壊れていなかった。
軽く笑って、1本取り出す。
プシュッ、と缶を開けた瞬間、テレビの音が途切れた。
「……え?」
画面には、自分の背中が映っている。
部屋の中、まさに今のアングルで。
振り返る。
誰もいない。
テレビの映像だけが、自分の背中を映し続けている。
手が震える。リモコンで電源を切ろうとするが、反応しない。
代わりに、画面の“自分”がこちらを振り返った。
それは、もうひとりの田嶋悠斗だった。
画面の中の彼は、笑っていた。
だがその笑顔は、皮膚が少し裂けるほど不自然な角度で歪んでいた。
⸻
ドアに駆け寄ろうとした瞬間、玄関から音がした。
──カチャ。
鍵が、外から回された。
凍りつく。
次の瞬間、ドアが開いた。
「……ただいま」
ドアの向こうに立っていたのは、自分だった。
全く同じ服装、同じ表情。
違うのは──
瞳の色が、真っ黒だということ。
もう一人の“自分”が、部屋に足を踏み入れる。
田嶋は後ずさりし、壁に背中をぶつけた。
「なんだ……お前、誰だ……!」
“もう一人”は、静かに答えた。
「ここは、俺の家だ」
言葉の響きが、頭の奥に直接入り込むように響く。
田嶋は必死に叫ぶ。
「違う! 俺の家だ!」
だがその声を遮るように、照明が一瞬チカッと点滅した。
気づけば、“もう一人”が目の前にいた。
至近距離。
笑っている。
「やっと、戻れたよ。」
その言葉と同時に、田嶋の視界が暗転した。
⸻
翌朝。
新聞配達員が、502号室の前を通る。
中からは、テレビの音が微かに聞こえていた。
画面には、会社員・田嶋悠斗の笑顔。
同じニュース番組。
同じ動作。
ただ──カメラが引くと、
彼の背後の壁に、もうひとつの顔が浮かんでいた。
まるで、壁の中から覗いているかのように。
⸻
エピローグ
後日、マンション管理人の証言。
「田嶋さん? 確かに住んでましたけど……
今はもう誰も住んでませんよ。
あの部屋、去年の火事で……」
⸻
終
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