第2話
ゴールデンウィーク明けのこの時期、
蒸し暑さで何度も汗を拭った明里は、ペットボトルの水をもう一本買っておくべきだったと後悔した。
道の先に自動販売機を見つけたが、表面は錆び商品のディスプレイは壊れている。
明らかに稼働していない自動販売機を横目に見ながら明里は先へ進む。
道沿いの家はどこも雨戸が締め切られ、草木に覆われていた。
その中でもとりわけ年季の入った家屋は倒壊しかかっている。
現在、笠木間村は無人の村となっている。
昭和の半ば頃から徐々に人口が減っていき、近年では村長一人が暮らしていた笠木間村。その村長が入院のため村を出ることになった。
そんなニュースが先月テレビで流れていたのを明里は覚えている。
「そろそろかな?」
緩やかな坂を上り切った先に大きな森が見てきた。背後に山が迫るその森は、黒々とした口を開けて待ち構えている。
「ここが、
森の入口の脇には古びた小さな石碑が七つ並んでいた。
まるで門番のように立ち並ぶ石碑を前に、明里は先へ進むことにためらいを感じた。
念のため自分の位置を確認しようと恐る恐るスマホの電源を入れてみる。しかし表示されたのは『圏外』の文字だった。
明里は急に、自分が日常から隔絶された世界に来てしまったことを実感し、血の気が引いていくのを感じた。
もしここで何かあっても助けを呼ぶことはできない。
森の入口から吹き出す冷たい風が明里の首筋を撫でていく。
しばらく入口の前に立ち尽くしていた明里だったが、意を決して森の中へと足を踏み入れた。
森の中は鬱蒼としていて靄がかかっている。
森に入るところまでしか考えていなかった明里は、ひとまず森の奥を目指した。
聞こえるのは地面の土を踏みしめる自分の足音と、時折吹き抜ける冷たい風が木の葉を揺らす音だけだった。
外の蒸し暑さから一転して、森の中は肌寒さを感じる。寒暖差のせいでまた頭が痛くなりそうだった。
ひたすら歩き続ける明里は段々と不安になってくる。
(本当に消えるのかな……)
この森に来るまで一時間近く歩いているため、体力も限界に近い。
奥に進むにつれ靄は霧となり、やがて霧雨へと変わっていった。
その時、湿った木の根で足を滑らせ大きく体勢を崩した。
「あっ」
咄嗟に近くの木に手を伸ばして体を支える。何とか転ばずに済んだが、足元は泥で汚れてしまった。
ついに心が折れた明里は、近くにあった小さな岩に腰掛けた。
頭上には張り出した木々の枝が幾重にも葉を茂らせ、雨避けとなってくれている。
(もし消えなかったら――)
汚れた足元をぼんやりと眺めながら考える。このまま誰にも気づかれず一人で死んでいくのだろうか。
思わず涙ぐんでしまったその時――
「大丈夫ですか?」
背後から突然声がして、明里は跳ねるように岩を降りて振り返った。
岩を挟んだ向こう側に一人の男が立っていた。
「だ、大丈夫です」
そう答えながら警戒して後ずさる。
「驚かせてしまってすみません。森の見回りをしている者です」
「森の見回り?」
「はい」
年齢は二十代から三十代くらいか。
細身で優しげな顔立ちをした男は、森の中では不自然に感じるほど真っ白なシャツ姿だった。
「お名前を聞いてもいいですか?」
「西野……明里です」
「明里さんですね」
「あ、あなたのお名前は」
森の中に一人でいる心細さから思わず名乗ってしまった明里は、せめて相手の名前も聞いておこうと上擦った声で尋ねた。
「僕ですか?」
男は少し驚いたような反応をした。
名乗りたくないのだろうか、と怪訝な顔をした明里の様子に気づいたのか、男は慌てたように弁解する。
「すみません、今まで名前を聞かれることなんてなかったので。……僕は、コウです」
「コウさん?」
「はい、そう呼ばれることが多かったです」
ようやく名乗った名前も本名ではなさそうだった。しかし深く追求して万が一怒らせてしまったら危険だと考えた明里は、無理に納得した。
きっと森の見回りというのもボランティアでやっているのだろう。
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