恋のかけらたち

大庭佳世

第1話 キミが教えてくれた奇跡

 四月の朝。窓の外には、薄紅色の桜が満開に咲き、通学路を淡く照らしている。高校二年生に進級したばかりの周りの奴らは、新しい出会いや環境の変化に浮足立っているようだった。しかし、俺、如月蓮きさらぎれんの心はいつも通り、鉛のように重く、曇り気味だった。


 新しいクラス、新しい担任。騒がしい環境に放り込まれるのは、これが初めてではない。父親の仕事の都合で、これまで何度か転校を繰り返してきた俺は知っている。人間関係というものは、最初こそ新鮮に見えるが、どうせ一年経てばまたガラリと変わり、やがて過去の記憶の片隅に追いやられる。そのことを知っているから、俺は誰とも深く関わろうとしないし、心を開く気になれずにいた。


 つまり、どうでもいい。 誰と席が隣になろうが、どんな行事があろうが、俺にとってはすべてが一時的なノイズに過ぎない。 ――心底、そう思い込んでいた。そう思い込むことで、別れの痛みから逃れようとしていたんだ。


 その子が現れるまでは。


 ホームルーム開始のチャイムが鳴ってから三分後、担任の教師は申し訳なさそうな顔で扉を開けた。 「転校生を紹介する。天音あまねひかりさんだ」 教師に促され、教室の扉から一人の少女が入ってきた瞬間、それまでの生徒たちの雑然とした私語がピタリと止んだ。教室の空気が、まるで春の陽光に溶かされるかのように、少しだけやわらかく、そして明るくなった気がした。


 彼女は、少しだけ光を吸い込むような長い黒髪と、透き通るような白い肌を持っていた。その佇まいには、どこか都会的で洗練された気品が漂っていたが、同時に、親しみやすい温かさも感じさせた。


 黒板の前で、彼女は軽く、それでいて品のある所作で頭を下げる。 「天音ひかりです。皆さんとここで出会えたことを心から嬉しく思っています。一年間、よろしくお願いします」 その声は、春風に揺れる真鍮の風鈴が奏でる音色みたいに、澄んでいて、心地よく響いた。その声が耳に届いた瞬間、俺の中の鉛のような重さが、ほんのわずかだが、軽くなった錯覚を覚えた。


「天音……ひかり……」 名前が、とても綺麗だと、そんな陳腐で詩的なことを思ってしまった自分に、俺自身が一番驚いた。周囲の生徒たちが彼女の名前を繰り返すざわめきの中で、俺だけがその名前を噛みしめるように意識していた。生まれて初めてかもしれない、誰かの名前をこんなにも意識し、その響きに心臓をざわつかせたのは。


 休憩時間になり、隣の席の幼馴染である佐倉悠真さくらゆうまが、肘で俺の脇腹を小突いた。いつもの調子で、顔いっぱいにニヤニヤとした笑みを浮かべている。


「おーい蓮、お前んとこ席空いてんだろ?ラッキーじゃん、特等席じゃねーか!ヒロイン隣確定だぞ!神様も粋なことするねぇ」


 マジでやめろ。俺は穏やかな、波風の立たない学園生活を送りたい。恋愛イベントとは無縁でいたいんだ。どうせ一時的な関係になるのが目に見えている。その関係が終わった時に面倒な感情を引きずりたくない。傷つくのが嫌だから、最初から無関心を装うのが俺の鉄則だった。


「うるさい。どうせあんな目立つ奴は、俺の隣なんてすぐ嫌がるだろ」


 俺の願いも虚しく、結局ひかりは担任の指示で、俺の隣の空席に座ることになった。彼女が近づいてくるたびに、教室の明るさが二割増しになったような気がした。


「今日からよろしくね、如月くん」 席に着くなり、ひかりは太陽のような、一切の陰りがない屈託のない笑顔を俺に向けた。その瞳は、まるで春の光をそのまま閉じ込めたかのように輝いていた。 顔が近い。距離が、あまりにも近すぎる。


「あ、ああ……よろしく」 俺の心臓は警鐘を鳴らすかのように、ドクドクと不規則で速い音を刻み始めた。この異常な心拍数、誰かに聞かれてないよな。こんなに冷静さを欠いたのは、一体いつぶりだろうか。俺の心の平穏は、彼女の登場によって、あっけなく崩されてしまった。





 賑やかなクラスメイトたちによる質問攻めや、新しい生活の喧騒から逃れるように、俺は放課後になると、いつも人が寄り付かない校舎の屋上へと足を向けた。ここは、自分の心をノイズキャンセリングできる、俺にとって唯一の聖域だった。


 錆びついた重い扉を、ガコン、と音を立てて開ける。誰もいないはずの場所に足を踏み入れたとき、その聖域はすでに侵入者によって占拠されていた。


 夕焼けの茜色に染まる空の下、彼女はフェンスにもたれかかり、遠い空を見上げていた。穏やかな夕方の風に、長く柔らかな髪が、まるで波のように揺れている。その光景は、一枚の美しい絵画のようで、彼女はまるで世界に一人きりのように、寂しげに佇んでいた。


「……あ、如月くん」 俺の足音に気づいたのか、ひかりが静かにこちらを振り向いた。その横顔には、昼間の太陽のような笑顔とは違う、どこか物憂げな影が落ちていた。 気づかれてしまった。逃げ場なし。こんな場所で二人きりになるなんて、全く予想外だった。俺の内心の動揺は、誰にも悟られないように、体の奥深くに押し込めた。


「こんなとこで何してんの? 鍵、どうやって開けたんだよ」 俺は動揺を悟られないように、努めて冷静で、少しぶっきらぼうな声で尋ねた。


 するとひかりは、俺の問いに少しも戸惑うことなく、当然のように答えた。 「風と話してたの」


「……え?」 一瞬、何を言われたのか理解できなかった。聞き間違いかと思った。「風と話す?」まるで童話の世界の住人みたいなセリフに、思わず笑いそうになるのを、必死でこらえた。


 ひかりはふわりと微笑んで、その瞳を再び遠い空に向けた。 「だって、風って優しいじゃない? 誰かが泣いてたり、落ち込んでたりすると、ちゃんと撫でてくれるの。寂しいときは、そばにいてくれるし」


 なにそのポエム。普通なら鼻で笑って終わりだ。だが、変な話じゃない。ひかりの言葉には、なぜか妙な説得力と真実味があった。いつの間にか、俺の心は彼女の言葉に妙に納得してしまう自分がいた。彼女の言葉の一つ一つが、俺の中の硬く冷たい殻を、少しずつ溶かしていくような気がした。


 ふいに、彼女は話題を大きく変えた。その変化球に、俺は再び動揺した。


「如月くんは、好きな人とかいる?」 あまりにも唐突な、そして教室では決して聞けないプライベートな質問に、俺は思わず声が上ずった。 「いきなり!? なんでそんなこと聞くんだよ」


「うん。だって、如月くんのこと気になっちゃって。なんていうか、いつも一歩引いてるでしょう? 周りを見てるけど、心は閉ざしてる。そんな人が、誰かを好きになる時って、どんな気持ちなのかなって思って」 ひかりは首を傾げながら、無邪気にそう言う。彼女は本当に、「好き」という感情そのものを、まるで解けないパズルのように探求しているようだった。


「い、いないけど……。俺は、そういう面倒な感情とは無縁でいたいんだ」 「うーん……“好き”って、どんな気持ちなのかなって思って」


 彼女の瞳が、沈みゆく夕焼けの光を映し、わずかに切なげに光っていた。それは、光を司る彼女自身が、その光の源となる感情の答えを探しているかのようだった。


 その瞬間、俺の心の奥の、ずっと鍵をかけていた場所で、何かが小さく、カチリと音を立てて鳴った。それは、長い間閉ざされていた扉の鍵が開く音のように聞こえた。


 ――もしかして、このざわめきが“恋”の始まり、なんだろうか。そして、こんなにも繊細で、すぐに壊れてしまいそうな感情に、俺は触れてもいいのだろうか。





 新しい日々が始まって一ヶ月。俺の生活は、天音ひかりという不確定要素によって、完全に非日常へと塗り替えられていた。


「なぁ蓮。お前、最近天音とやけによく話してね?昼飯も、前まで屋上で食ってたのに、最近は教室にいるだろ」 昼休み、悠真がニヤニヤしながら、俺の弁当のおかず(卵焼き)を遠慮なくつつきながら言った。


「たまたまだよ。席が隣なんだから、話す機会が増えるのは当然だろ。屋上は最近、風が強くて寒いんだ」 俺は平静を装って答える。しかし、悠真は俺の動揺を一切見逃さなかった。 「はい出た、“たまたま”理論。それはお前が自衛のために作り上げた仮説だろ。男はみんな、恋の始まりにはそうやってごまかして、合理的な言い訳を探すんだよな。お前、顔が赤いぞ、蓮」 悠真の指摘は、まるで数学的な証明のように的確で、俺は図星を突かれて何も言い返せなかった。


 そのとき、教室の入り口の方から、聞き慣れた鈴のような声が聞こえてきた。その声が聞こえるだけで、俺の心臓はすでにスタンバイ状態に入る。


「如月くん、数学ノート見せてくれる? どうしてもここがわからなくて。私、数式という冷たい壁が苦手で……」 ひかりが、まるで最初からそうするつもりだったかのように、俺たちの席までまっすぐ、春風に乗ってやってきた。


「あ、ああ……」 俺がノートを差し出すと、ひかりは当然のように俺の隣の席に椅子を引き寄せ、座り込んできた。その所作に、一切の遠慮がない。 距離、近い。ほんとに近い。さっきから、石鹸の爽やかな香りと、彼女が身につけている柔らかな日差しのような匂いが、ふんわりと鼻をくすぐる。


「ありがとう。やっぱり如月くんって、きれいな字書くんだね。ノートの取り方も几帳面で、見ていて気持ちがいい」 ノートを覗き込みながら、ひかりは感心したように言った。彼女の吐息が、俺の首筋にかかる。 「そ、そうかな。字なんて、ただ読めればいいんだ」 「ううん、違うよ。字にはね、性格と優しさが出るんだよ。几帳面で、誰かを裏切ったりしない、優しい感じがする」 「やめてくれ、恥ずかしい」 俺の顔に熱が集まっていくのがわかる。顔だけでなく、耳まで熱くなっている気がした。 「ふふ、照れてるの? 如月くんって、クールな外見と違って、すごく可愛いところがあるんだね」 ひかりは悪戯っぽく笑った。


 俺、絶対顔真っ赤だ。心臓が、まるでロックドラムのように痛いくらい脈打っている。体温が、まるで熱を出したときのように急上昇しているのがわかる。


 周りのやつらが、「おーい、青春してんなー!」「リア充爆発しろ!」「天音ちゃん、如月をいじめないでやれよー」とか言って笑ってるのが聞こえる。


 頼むから、誰も俺たちを見ないでくれ。この感情のざわめきを、誰にも知られたくなかった。この異常な心拍数の秘密を、誰にも知られたくなかった。


 恋の定理なんて、俺には解けそうにない難問だ。それは、論理や合理性では決して説明できない、無限の不確定性を秘めた問題だった。俺は、その問題に、抵抗しながらも、引きずり込まれていく自分を止められずにいた。





「如月くん、私ね……また転校するの」 その言葉を聞いたのは、またしても放課後の屋上だった。 六月の風が、まるで別れを告げるかのように、少し冷たかった。春は終わり、季節はすでに初夏へと移り変わっていたが、俺の心は一瞬で真冬に戻されたようだった。


 俺は言葉を失い、ひかりの顔を見つめることしかできなかった。 「どうして?」 やっとのことで絞り出した声は、ひどく掠れていた。喉の奥が詰まって、まるで呼吸ができないようだった。 「お父さんの仕事。いろんな土地を転々としてるの。次は遠い南の方の街へ行くんだ」 ひかりは淡々と、まるで他人の話をするかのように言う。その平静さが、逆に俺の心を深く切り裂いた。彼女にとっては、別れは慣れた日常の一部なのかもしれない。 「……いつ?」 「夏休みの終わりには、もうこの街にはいないかな」 彼女はそう言って、いつものように微笑んだ。その笑顔が、今にも泣き出しそうなくらい、優しく、そして切なく見えた。


 知っていたはずだ。いつか終わりが来ることを。だからこそ、深く関わらないように、心を閉ざしてきたはずなのに。その「いつか」が、こんなにも早く、突然訪れるなんて、俺は想定していなかった。


 夏祭りの夜。 人波に揉まれながら、俺たちは並んで歩いていた。周囲の熱気と喧騒が、俺たちの間にある静かな悲しみを際立たせる。


 浴衣姿のひかりは、屋台の暖かな明かりに照らされて、昼間とは違う、幻想的な美しさを放っていた。その横顔を、俺は焼き付けるように、記憶のフィルムに永遠に残すように見つめた。彼女の存在そのものが、儚い光のように感じられた。


 花火がドン、と夜空に大きな音を立てて咲いた。その一瞬の光が、夜の闇を裂く。 その音に勇気づけられたのか、俺は抑えきれなくなった感情を、夜空に放つように口にした。 「ひかり」 「ん?」 俺は立ち止まり、ひかりの瞳をまっすぐ見つめた。もう、失うことを恐れて心を閉ざすのは嫌だった。 「俺……お前のこと、好きだ。本当に、心から好きだ」


 静かな夜風が吹き抜けた。周りの喧騒も、一瞬遠くなったように感じる。時間が止まったかのような、長い沈黙。 彼女は少し驚いたあと、俺と同じようにまっすぐ俺を見つめ返し、太陽のような、そして雨上がりのような複雑な微笑みを浮かべた。


「ありがとう、蓮くん。蓮くんがそう言ってくれて、本当に嬉しい」


「……嬉しい、だけ?」 俺は、それ以上の、確固たる答えを求めていた。 ひかりはそっと目を伏せ、長い睫毛が影を落とす。そして再び、微笑んだ。 「うん。私も、好きだよ、蓮くん。あなたの不器用で優しいところが、本当に好き。でも……それを言っちゃうと、きっと、泣いちゃうから。そして、縛り付けてしまうから」 その言葉は、まるで魔法のように、俺の心臓を締め付けた。彼女は、別れの運命を受け入れ、その上で、俺を自由にしてくれようとしていた。その優しさが、痛かった。


 再び花火が、夜空いっぱいに炸裂する。その轟音が、胸の奥深くまで響いた。 夜空の光が、滲むように見えたのは、きっと涙のせいだった。これが、俺が、心の扉を開けて初めてした告白であり、最初で最後の告白になるだろう。





 天音ひかりがいなくなっても、この街に風は吹いている。あの屋上では、今も風が寂しそうに、フェンスを撫でているのかもしれない。


 彼女が去ってから迎える二学期の朝、教室の隣の席は空席のままだ。その空間は、ひかりの存在がどれほど大きかったかを、毎日静かに教えてくる。席は空いているが、そこには彼女が置いていった春風の残滓のようなものが、確かに残っていた。


 あの日の屋上で、彼女が言った言葉を、ふと思い出す。 “好きってね、自分が変わっちゃうことだと思うんだ。相手のためじゃなくて、自分が、ね。”


 俺は確かに変わった。 以前のように、物事に冷めた態度を取らなくなった。新しい環境を拒絶し、心を閉ざすことをやめた。教室の窓から見える世界が、以前のモノクロームな景色から、ほんの少しだけ、明るい色彩を帯び始めた。


 誰かを想うことで、自分が生きてるってわかる。心臓が、確かに熱を持っている。それは、冷めた鉛のように重かった過去の自分には決して感じられなかった生命の躍動だ。


 もう二度と会えないかもしれない。南の遠い街で、彼女がどんな景色を見て、どんな風と話しているのか、俺は知る術もない。それでも、俺の人生にひかりという光が差し込んだ事実は、消えない。


 彼女が俺の心の扉を開け、感情を再び動かすことを教えてくれた。 それが、たぶん奇跡ってやつなんだ。


 ――天音ひかりが、俺にくれた、たった一つの永遠に続く奇跡。


 俺の人生は、もうどうでもよくない。なぜなら、俺の心には、彼女が教えてくれた、誰かを想う熱が、今も確かに灯っているのだから。そして、その熱が、俺を前へと進ませている。

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