夜の道の あなたに
すわ樫井
第1話
行くなら、今しかないと思った。
窓の外を白く埋め尽くしていた豪雨が、嘘のように止んだ今しか。
家から出るのは怖かった。大雨特別警報とやらが出ていた。まして、真夜中だ。スマホの灯りは細すぎて、頼りなかった。道の脇を流れる川は、しぶきを散らせながら轟々と音を立てている。避難所とやらにさっさと着きたいのに、勘を頼りに歩く道沿いにはそれらしい建物も無い。通り過ぎたのかもわからない。また強い雨が降り出したらお終いに違いない状況で、俺の膝は笑いっぱなしだ。
浅い呼吸を繰り返しながら歩いているうち、ふと、道路の先でぼんやりと光るものに気が付いた。
街灯なんてない山道だ。
灯りに惹かれる羽虫のよう、自然と足が速くなる。
道路を流れる雨水が跳ねて、ふくらはぎまでびちゃびちゃに濡れるが、今更だ。ぼんやりと光るものが、誰かの真っ白な服だと気が付くころには、俺の足は小走りを始めていた。
「待って!」
闇夜に浮かぶ仄白い背に、思わず叫んでいた。
「わい!」
妙な叫び声を上げながら、白い背中がくるりと回った。
走り寄る俺を振り返ったのは、がっしりとした体つきの青年だった。何と言うか、強そうだ。
たてがみのように広がった長めの髪が、ライオンめいていた。大きな目玉にぎょろりと見据えられ、俺は、すぐさま目をそらした。
「……誰だ?」
「あ、あの、突然、すみません。避難所の場所」
「避難所」
「また降りだす前に、安全な場所に、行きたくって」
こんな状況で出歩いている人だ。きっと同じ目的だと思ったのに、男の返事は要領を得ない。緊急安全確保だとか、物々しい情報がこのあたり一帯に出ていたはずなのに。同年代と思しき男は、のんびりと首をかしげている。
「安全な場所なら、わかるけど。ちょっと歩くぞ?」
「同行させてくださいお願いします」
もはやどこに行けば良いか、自分がどこにいるのかもわからなくなり始めていた俺だ。
食い気味に言い縋って、男に一歩迫ったつもりが。右膝が、がくりと抜けた。
――いや。実際に、足裏が踏んでいたはずの道路がぼこりと抜けたようだ。右半身から浮遊感に侵されて、ぞっと背筋が冷えた。
「おお、そっちは危ねえ」
轟き渦巻く川の音が、ぐっと近づいた、と思ったところで。
左腕を、ぐいと強く引かれた。
「崩れてる」
「ええ?!」
ぽつりと聞こえた低い声に、引っ張られるまま二歩三歩と足がもつれる。
荒れ狂う川が、道路の下の土を削り取ったのだろうか。道路すらもう安全じゃないなんて。嘘だろ。涙が出そうだ。
なんて「外」は怖いんだ。
でもきっと、「土砂災害警戒区域」とやらに建つ俺の家はもっと怖い。二階の北側、裏山に近い自室が一番怖い。窓に切り取られた景色も、屋根を乱打する雨音もずっと異常だった。夜勤中の親が、「避難しろ」と俺にメッセージを送ってきたくらいだ。何かとんでもない事態が、
とうつむいていた視界に、ぬっと現れた顔があった。
「怖い思い、したんだな」
くっきりと太い眉尻を垂らした男が、大ぶりな唇に似合わない、小さな声を出した。
よしよし、と俺の背中まで叩いてきた。
なんて馴れ馴れしい。ぎょっとしてよくよく見れば、男は、バカみたいに飯を食う運動部みたいな顔立ちをしていた。普段の俺なら絶対に声をかけないタイプだ。
「歩けるか?」
「それは、多分、なんとか。俺、夜とか全然出歩いてないから。いつもの景色と違って、ちょっと」
「なら、手え引いてやる。俺は、お前さんよりは慣れてるし案内できそうだ」
「わ」
ビビッて歩けなくなってるわけじゃない。昼間だったら迷子にはなってない、なんて。
俺がせっかく、可能な限り見栄を張ったのに。
骨が太いがっしりとした指は、あっさり俺の手のひらを握った。
誰かと手をつなぐなんて、何年ぶりだか。ガキかよ、という思考がよぎったものの、不覚にも。安堵で、鳩尾の奥あたりが緩く開いたような感覚があった。
「ん」
夜陰に彫り込まれた白目が、すっと細まる。小さく頷く男の表情に、侮りが無いのが有難い。
何でもないことのように、手を引かれながら歩くことができる。
「雨、心配ですね」
「まあ、台風じゃなければ、そんな心配ないだろ」
「ええぇ」
平静を装って会話を振ったというのに。返答が豪胆過ぎる。
あの滝のような雨に振り込められて、道路を崩すほど勢いを増した川を見て、この感想。
年のころも同じくらいなのに。なんだこの差。
青白くてひょろひょろで、背中を丸めて歩く俺と。分厚い体と四角い感じの顎をした男にみなぎる生命力や頼もしさが、段違い過ぎる。もはや、嫉妬や情けなさよりも、安心感を覚えてしまうレベルの隔たりだ。
「もしかして、台風、来てたのか?」
「いえ、センジョウなんとかってやつの雨……じゃなかったですっけ?」
「なんだそりゃ」
剛の者かと思っていたが。……俺以上に世情に疎いやばいヤツかもしれない。
「え、……避難中、じゃないんですか?」
「まあ、安全なところ、に行くよう叱られて。移動中ではある」
「避難中じゃんすか」
見栄を張っているような言い回しがおかしくて、つい笑ってしまった。
少しだけ気分が軽くなる。筋肉量こそ絶望的な格差があるが、知識量や認識は俺と同レベルらしい。良かった。ビビりなうえに馬鹿なのか、と侮られることはなさそうだ。
「……避難とかマジだるい。川のそばは駄目、山のそばも駄目、とか。このへん、山と川ばっかりだし、安全な場所ってどこか全然わかんねえし」
家の自室が、一番安全だと思っていた。
自室の外は危険と面倒ごとと閉塞感しかなかったから、ずっと自室に籠り切っていたのに。
外壁の裏の、空き家を一軒挟んだまだ奥に、崩れそうな裏山があるなんて。酷い話だ。
ここ最近の、栓が抜けたように降る雨がただただ恨めしい。テレビから聞こえる、脅すような物言いも嫌だった。中学生の頃からあの部屋に籠りがちだったが、窓の外の雨ごときにすら怯えるようになったのは、ここ一、二年だ。
「川があんのか」
「え?」
同居している親とすら、月に数えるほどしか会話をしていない。
自室で口にしていたのは、独り言ばかりだった。
いつもの調子で口にした文句に言葉が返ってきても、俺は、ぎょっとするだけだ。会話なんて繋がらない。
「俺ん家の近くは、川が無かったからな」
「え、でも、すぐそこ」
反射的に否定を返そうとして、ふと。
あれだけ轟轟と響き渡っていた水音が、いつの間にか、随分遠くなっていることに気が付いた。
あの道沿いに歩いて、川から離れる所なんてあっただろうか。改めて周囲を見回したが、どうにも闇が深い。先ほどまで見えていた、田畑や家屋の輪郭も、黒々とした山のシルエットも消えていた。
「あれ? え、川沿いの県道っすよね、ここ」
「手を離すなよ。迷う。ここで迷ったら、……見つけてやれない」
質問は、流された。
ただ、ぎちり、と強く手を握られる。
「え? ここ、って。『ここ』って。どこ、ですかね」
「ちょうど、境のあたりだ」
「サカイ? えっと……小学校区で言うと、どのへんに」
とにかく暗くて視界が効かない。ここがどこかもわからない。
足元がぐらつく感じもある。それもそうだ。俺の足が踏んでいた床はさっき、もう既に――
「ちょっと、目え閉じて。俺の話に集中しろ」
「は?」
「いーから」
太い腕が、俺のうなじあたりを強引に押した。お蔭様で、俺の頭は、分厚い胸板あたりに抱え込まれてしまう。
何かに到達しかけた思考も、ぶつりとちぎれる。
だって、体温が近い。鼻と口いっぱいに人の匂いのようなものを詰め込まれて、いわゆる「ひきこもり」生活の長い俺の心が、それどころではない。
「何の音が聞こえる?」
「ええ? 川の音が、遠くに、少し」
対照的に、男の声は場違いなほどに穏やかだった。
太い腕と胸板に囲まれた空間は、俺を追い立ててきた、ざああという音が遠い。俺の心音の方が悪目立ちしている。人慣れしていない俺だけが、いたたまれない。
「あれは、畑の葉が擦れる音だ」
「畑ぇ?」
「匂いは?」
混乱する頭に、次々と情報が注ぎ込まれる。
俺は生来、流されやすい。避難所を目指していたはずの足を止め、男の囁き声に流されていく。
「汗、みたいな。男くさい……」
「はは、そりゃそうか。これじゃ俺の匂いばっかになるな」
俺を抱えた体が、小さく揺れている。
馬鹿にした様子も、怒った様子もない。ほがらかな笑い声に、相手の機嫌を伺うことには慣れきっていた心身から、少しだけ力が抜ける。ちゃんと「正解」が言えた、と安堵する。
「街灯なんかほとんど無いからな。夜は暗い。けど、星空が広いんだよな。星を見に来る人もいるくらいだしなあ。多分、凄いんだろ。うん。満天の星空ってやつだな。よし。そろそろ良いか。目え開けて、空、見上げてみろ」
「は? え、 ええ、嘘」
指示されるまま、ぱっと解放された勢いのまま、空を仰げば。
信じられないことが起きた。
いや、ひきこもっていた俺が風呂トイレ以外で自ら部屋を出ようとした時点で、信じられないことは始まっていたのかもしれないが。
先ほどまで、分厚い雨雲が幾重にも流れ込み塞がっていたはずの空が。
いきなり、穴だらけの明るい夜空になった。
いや、穴じゃない。星だ。写真でしか見たことがないような、星だらけの空になった。
リードに繋がれた犬がはしゃぐように、俺は、男と手をつないだままくるくる回って星空を見渡す。すごい。なんだこれ。どの方角を見ても、見渡す限り、星空が切れ目なく続いている。雨雲なんてどこにもない。
「ここ、どこ?!」
「あっはっはっは!」
夜の静けさに全然遠慮していない大笑いを、男が響かせた。
星明りに照らされたその顔は、やはり記憶に無い。真っ白いTシャツの下は、ハーフパンツにサンダル履きだ。とてもじゃないが、大雨の特別なんとかが出ている中、出歩く人間の服装ではない。
周囲は、植物で埋まっていた。時折ざざあざざあと鳴く草木の群れを割るよう、俺たちの立つ道が一直線に伸びている。が。山が無い。俺の家を取り囲むように押し込めるように四六時中そびえていた山が景色のどこにもない。ついでに、夜風に揺れる畑の植物は、見飽きた稲よりはるかにずっと背が高い。細長く大きな葉に見覚えはない。
空気は、雨上がりのようにじっとりと湿っている。
「異世界じゃん! これ異世界だ!」
「うう~ん、よくわかんねえけど、多分違う気がすんなあ」
まさかの。
まさかの、だ。
男の指を振り払い、握りっぱなしだったスマホの電源ボタンを押し込む。
ぱっと輝いたロック画面に、大きく表示された時刻は「82:72」。時刻とは程遠い異常な数字だ。電波も無い。
「それなんだ?」
「わかりやすく、異世界転生じゃん……」
きっと「異世界転生」だ。
だって俺。
俺は。
自宅を出るか迷いに迷って、スマホであれこれ情報検索して、安心できる情報に出会いたくてスクロールを繰り返していた最中に。
世界が身震いしたようなバキバキと凄まじい音がして、家が震えて、山側の床と壁を割って流れ込んできた泥と石と折れた柱だか流れ込んできた木だかに足を掴まれて、
そこで記憶は終わっているのだから。
「俺、死んでるし。部屋から出られなくて、出るのが嫌で、結局、奥の裏山が崩れちゃって」
県道を歩いているつもりだった足が、いつの間にか、自室でうろついていた時と同じ、裸足になっていた。あのとき押し寄せる泥に流されたスマホも、手の中から、ふっと消えていた。
もしかして、これは。「死んだ時と同じ装備」に、「戻された」のだ、とゲーム脳がびりりと痺れた。
足裏で踏む小石の感触が、突然鮮明になる。五感が、新鮮な刺激に沸き立っている。
「で、コレ! 記憶に無い、この景色! これはきっと、異世界転生~!」
「すげえ活きが良くなったな。でも、多分、違うぞ」
「…………」
先ほどから淡々と水を差す男をじっとりと睨む。
出るに出られないあの部屋から、全てを放り投げて新しい世界にやって来れたという高揚を。なぜ認めてくれないんだ。これが異世界転生じゃなければ、何だというんだ。
「俺みたいに、迷い込んだ人間を保護するとことか、ある?」
「聞いたことがねえなあ。参ったな。このまま、連れてって良いのかもわかんねえけど」
「あ?」
「置いてくのも、危ねえんだよな」
「わ!」
再び男に、腕を掴まれ引っ張られた。
と同時、ぐらりと後ろに落ちかけた踵が、アスファルトを慌てて滑り、むき出しの足裏がざりっと痛い。
一体何事かと振り返った先。俺が先ほどまで立っていたはずの地面に、ぽっかりと大穴が開いていた。
「えええ何?!」
異常な事態の連続に、敬語はすっかり抜け落ちている。
陥没した、というよりも、真っ黒な球体に喰われたように路上に真っ暗な穴ができていた。
「あんまり立ち止まってっと、後ろから喰われる」
ひらひらと目の前で振られた左手は、よく見ると小指が半分くらいしか無かった。
「試したら、指を喰われた。だから、立ち止まらない方が良い。行こう。歩けるか?」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます