第2話

リリィとの生活が始まって、数日が過ぎた。

私はまず、彼女のための環境を整えることから始めた。

赤ん坊を育てるのは、もちろん初めての経験だ。

前世でも独身だったから、育児の知識なんてほとんどない。

けれど、幸いなことに、私には現代日本の知識という武器があった。

栄養学、衛生管理、そして教育心理学。

断片的ながらも、覚えている知識を総動員する。

まずは食事だ。

母乳の代わりになるものを探さなければならない。

私は森で、栄養価が高いとされる木の実や、ヤギに似た動物を捕まえて、その乳を搾った。

それを煮沸消毒し、前世の知識で作った育児用ミルクもどきを完成させる。

おそるおそるリリィの口元へ運ぶと、彼女は待ってましたとばかりに、小さな口でちゅぱちゅぱと吸い始めた。


「美味しい?リリィ」

「あー、うー」


まだ言葉は話せないけれど、満足そうな顔をしている。

良かった。とりあえず、餓死させる心配はなさそうだ。

次は、寝床の確保だ。

私のベッドは、大人一人でいっぱいいっぱいだ。

リリィを寝かせたら、私が床で寝ることになる。

それは構わないけれど、赤ん坊は体温調節が苦手だと聞いたことがある。

冷たい床では、体を冷やしてしまうかもしれない。

私は森から丈夫な蔓と柔らかな苔を大量に集めてきた。

それを使って、即席のベビーベッドを編み上げる。

前世で見た、ゆりかごのような形を参考にした。

我ながら、なかなかの出来栄えだ。

リリィをそっと寝かせてみると、彼女は気持ちよさそうに手足を伸ばし、すぐに眠ってしまった。

この調子で、おむつや産着も、動物の皮や植物の繊維を使って手作りしていく。

公爵令嬢だった頃には、考えられないような生活だ。

けれど、不思議と苦ではなかった。

むしろ、自分の手で何かを作り上げること、そして、リリィがそれで喜んでくれることに、充実感すら覚えていた。

もちろん、その根底には「この子に嫌われたら殺される」という強烈な恐怖心があることを、私は忘れていない。

これは全て、私の生存戦略なのだ。

そう自分に言い聞かせながら、私は必死に育児に励んだ。


そんなある日、森の中で一人の男に出会った。

熊を狩るための罠を見回りに来た、近くの村の猟師だという。

男は、私の姿を見てひどく驚いていた。


「あんた、こんな森の奥で一人で暮らしてるのか?」

「ええ、まあ。何か問題でも?」


私は警戒心を露わにしながら答える。

できるだけ、人と関わりたくない。

私が元貴族だとバレたら、面倒なことになるかもしれないからだ。

男は私のぶっきらぼうな態度にも怯まず、興味深そうに私の家を眺めた。


「いや、大したもんだと思ってな。女の一人暮らしは大変だろう」

「……別に」

「そうかい。ところで、さっきから赤ん坊の泣き声が聞こえるが……あんたの子か?」


しまった。リリィが目を覚ましたようだ。

隠すこともできず、私は渋々頷いた。

男はますます驚いた顔になる。


「へえ!あんた、母親だったのか。そりゃあ、もっと大変だな」


男は、自分の腰から下げていた袋をごそごそと漁り、中から干し肉を取り出した。


「これ、やるよ。栄養つけねえとな」

「……いえ、結構です」

「遠慮すんなって。困った時はお互い様だろ」


男はそう言って、干し肉を私に無理やり押し付けた。

人の善意が、今は少しだけ怖い。

私はどう対応すればいいのか分からず、ただ黙ってそれを受け取った。


「じゃあな。また見回りに来た時にでも寄るよ」


男はそう言い残して、去っていった。

嵐のような人だった。

私は手の中の干し肉を見つめる。

悪い人では、なさそうだ。

けれど、油断はできない。

この世界では、何が起こるか分からないのだから。

数日後、あの猟師が再びやってきた。

今度は、小さな包みを手にしている。


「よう。これ、うちのカカアが焼いたパンだ。赤ん坊がいるなら、食い物も色々いるだろうと思ってな」

「……どうも」


私はまた、素っ気なく礼を言うことしかできなかった。

猟師は気にした様子もなく、家の中を覗き込む。

ゆりかごで眠るリリィの姿を見て、目を細めた。


「可愛い赤ん坊だな。名前はなんて言うんだ?」

「……リリィ、です」

「リリィか。良い名前だ」


猟師は満足そうに頷くと、ふと、部屋の隅に置いてあった乾燥させている薬草に目を留めた。


「そりゃあ、薬草か?あんた、そういうのにも詳しいのか」

「少しだけ。独学です」

「へえ。実は今、村で風邪が流行っててな。咳が止まらねえ奴らが多くて困ってるんだ。もし良かったら、その薬草を少し分けてもらえねえか?」


私は少し考えた。

ただの気休めにしかならないかもしれない。

でも、断る理由もない。

私は乾燥させた薬草の中から、咳に効くとされるものをいくつか選んで、彼に渡した。


「ありがとうございます、助かります、とは言いません。これは物々交換です」


そう言って、私は猟師が持ってきたパンを受け取った。

彼に借りを作りたくなかった。

対等な関係でいたかったのだ。


「ははは!あんた、面白いな。分かったよ。じゃあ、ありがたく交換させてもらうぜ」


猟師は笑って、薬草の包みを受け取った。

そして、彼は驚くべきことを口にした。


「あんたが作ったミルク、すごいな。うちの赤ん坊にも飲ませてやりたいくらいだ」

「え?」

「リリィちゃんを見てりゃ分かる。普通、生まれて数ヶ月の赤ん坊が、あんなに肌艶が良いわけがねえ。きっと、あんたの作るミルクには、何か特別な力があるんだろう」


猟師は、心から感心したように言った。

特別な力?そんなもの、あるはずがない。

私が作っているのは、ただの栄養バランスを考えただけのミルクだ。

強いて言うなら、リリィが聖女だから、成長が早いだけだろう。

けれど、そんなことを彼に説明できるはずもない。


「さあ。どうでしょうね」


私は曖昧に笑って、誤魔化した。

猟師は、私が何かを隠していると思ったらしい。

彼は何かを納得したように頷くと、「邪魔したな」と言って帰っていった。

私は、彼が見えなくなるまで見送る。

そして、大きなため息をついた。

どうやら私は、この猟師に、何かとんでもない勘違いをされているようだ。

森の奥に住む、不思議な力を持った女。

そんな風に思われている気がしてならない。

面倒なことにならなければいいけれど。

私は不安を覚えながらも、リリィの世話に戻った。

彼女の寝顔を見ていると、少しだけ心が安らぐ。

この子が健やかに育ってくれれば、それでいい。

たとえ、その成長が、私の想像を遥かに超えるものだったとしても。

私はリリィの小さな手を握り、前世で覚えた子守唄を口ずさんだ。

きらきら星の、メロディー。

私の拙い歌声が、静かな森の家に響き渡る。

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