魏公不望蜀

河野 行成

魏公不望蜀(ぎこう、しょくをのぞまず)

 建安けんあん二十年春、漢丞相かんじょうしょう魏公ぎこう曹操そうそうは、外の呉との戦いは長江を挟んで膠着こうちゃくし、内は今上帝の皇后伏寿ふくじゅを廃して娘曹節そうせつを皇后となしていた。懸案けんあんが除かれたその目に留まったのが、漢中かんちゅうであった。りょう州の賊である馬超ばちょうを関中から追い落としたが、漢中に逃げ込まれていた。そこは長らく漢朝に従わずに来た、五斗ごと米道べいどうという邪宗で民を惑わしている師君しくん張魯ちょうろの治める国である。間者から、馬超と張魯は上手く行かず、馬超は氐族ていぞくを頼って出奔しゅっぽんしたという報が届いた。孫権そんけん劉備りゅうびという厄介な群雄と相対あいたいし、魏公は夏侯淵かこうえんらにより関中かんちゅうを平定し、ろう、涼州を確保した。今、漢中を得れば揚州ようしゅう荊州けいしゅうの孫権・劉備に睨みが利く。涼州・関中を保つには漢中を押えるに如かず。更に目の上の瘤、荒武者の錦馬超きんばちょうは漢中を離れた。魏公、更に郷間きょうかんを駆使し算段を重ねる。そして機は熟したと、三月、漢中が邪宗を信じ漢にまつろわないことをただすを大義に、これを撃つべしと兵を出した。

 魏公軍は長安ちょうあんから陳倉ちんそうを継いで散関さんかんを抜け武都ぶと郡に入り、行都護ぎょうとご将軍夏侯淵・平寇へいこう将軍徐晃じょこう偏将軍へんしょうぐん張郃ちょうこうは涼州軍を率いて天水てんすい上邽じょうけい西城せいじょうを継ぐ。両軍は休亭きゅうていに会し、都合十万、漢中に入って陽平関ようへいかんに到った。張魯は降るを欲せしも、弟の張衛ちょうえいはそれをがえんじず、数万の軍勢を率いて関を守っていた。魏公、涼州従事じゅうじや武都降人こうじんから、張魯は攻め易く張衛の守備は言うに及ばず、陽平の南北の山は相遠あいとおく守るべからずとかれ、しかりとこれを信じた。しかし、行きてのぞむに及んで聞く所と異なれり。地は険しく、守り易し。精兵虎将といえども勢いあたわず。長戦ながいくさおもわねば糧食は薄し。よって民から麦を取りて軍糧と為した。

 魏公、嘆じて曰く「人のはかる所、己の意にしかること少なし」

 陽平の山上の諸営を攻めるもすぐには抜けず、士卒の傷痍者しょういしゃ多し。

 三日対峙し、魏公は嘆じて曰く「兵を動かし三十年、一朝にして人に与えんとは。如何いかんせん」

 魏公、意気沮喪そそうし、山道に軍を還さんと欲す。すなわち夏侯淵と武衛ぶえい中郎将ちゅうろうじょう許褚きょちょに山の軍勢の撤退を命じた。しかし、先兵はまだ帰還せず、夜中に迷いまどい、誤って敵営に入り、逆に敵が退散した。後衛の侍中じちゅう辛毗しんぴ主簿しゅぼ劉曄りゅうよう、夏侯淵と許褚に伝えて曰く「官兵既に敵の要営を得て、敵既に散走さんそうす」

 夏侯淵と許褚はそれを信じず自ら見に行き、かえって魏公に敵の敗走を報じ、劉曄がここは攻める時と述べれば、魏公はこれを征せんと兵を進め、幸いにも勝利せり。すなわち張衛を陽平関に破った。

 張魯はいよいよ降るべしと思う。

 されど功曹こうそう閻圃えんほ曰く「今せまられてかば、功は必ず軽し、宝邑ほうゆう杜濩とこり、夷王いおう朴胡ぼくこ相拒あいふせぎにおもむき、然るのちしつゆだねば、功は必ず多し」

 張魯、この進言を受けて巴中はちゅうに逃れ、一方、魏公は漢中の要である南鄭なんていを得た。

 魏公は南鄭に入城して驚いた。張魯の治政についてである。民からしぼり取っていたわけではない、租税や寄進として受け取った穀類や財物は蓄え、必要に応じて民に施していた。魏公に攻められても、その財貨を国家の物であると焼かずに封印していた。漢中至る所の街道は整備し、慈善を施していた。民にうらまれるどころかしたわれていた。これは正に循吏じゅんりたる太守なり。魏公、留まりたる吏士りしたちに張魯の人となりを聞けば、以前から聞いていたことを裏打ちする証言を得る。謙虚にして奢らず、人の言には必ず耳を傾ける、等々。この者、殺すのは惜しいと、封爵ほうしゃくを保証するから降れと使者を巴中に遣ると、張魯・閻圃は素直に降り、かくして漢中は落ちた。


 さて、漢中の隣はしょくである。その蜀は群雄劉璋りゅうしょうが治めていたが、張魯や曹操の脅威ゆえに頼った劉備に、逆に襲われる所となった。この動乱は好機であるが、さあどうする、勢いに任せて攻めるか。されど魏公の次の手は、兵をしばし休ませることであった。

 主簿の司馬懿しばいと劉曄、魏公に対して、恐れながらと、まかり出て進言する。

 司馬懿曰く「劉備は詐術さじゅつと力で劉璋をらえたり。蜀人は未だ付かず、遠く江陵こうりょうを争わん。この機失うべからず。今し漢中で威を輝かせば、益州えきしゅうふるえ動じん。兵を進めこれにのぞめば、敵の勢い必ず瓦解がかいせん。この勢いにより、容易たやすく功を為さん。聖人は時をたがえず、また時を失わずなり」

 魏公、両主簿をじろりと見据みすえる。両名は礼を守って顔を上げずにいるので、表情が読めぬ。それでも二人のよわいは読める。司馬懿は三十後半、劉曄は四十半ば、しかして我は六十を越えた。

 魏公嘆息たんそくして曰く「人は足ることを知らず苦しむ。既に隴右ろうゆうを得て、た蜀を望むや」

 劉曄もまたこの機を逃すと劉備が勢力を延ばしますぞと諫言して曰く「司馬仲達ちゅうたつの言はその通り。若し少しの遅延緩怠かんたいあらば、諸葛亮しょかつりょうが国を治めるのは明白、関羽かんう張飛ちょうひといった勇将たちが力を蓄えましょう。となれば蜀の民は既に定まり、関隘かんあいの守りによって犯せるべからず」

 魏公応えて曰く「士卒は遠路を踏破し労苦せり、宜しくこれを憐れむなり」

 

 主公の言に反論もせず頓首して下がった両主簿、営舎へ戻ろうとすると、後ろから夏侯淵ら諸将に声を掛けられる。

 夏侯淵問いて曰く「主公の言、「既に隴右を得て、復た蜀を望むや」とはどういう意味であろうか。或るものは、単に人の強欲を嘆いた言と言う。或るもの、此度のいくさかんがみ主公の気力を案ず。或るもの、されど主公が言うなら、何か含みが在らんと言う」

 居並ぶ徐晃・張郃がうなずく。

 司馬懿が劉曄に向かって曰く「主公の復た蜀を望むの言、世祖せその言なり」

 劉曄応えて曰く「左様、世祖が征南公せいなんこう岑彭しんほうに宛てた詔勅しょうちょくの文言なり」

 夏侯淵はいて曰く「ほう、願わくはつぶさに聞かせてくれまいか」

 請われた劉曄、世祖すなわち光武帝が己が祖先故に問われたかと、首を傾げ、思い出しながら曰く「勅に曰く「西城、上邽、両城、若し降らば、すなわち兵を率いて南の方、蜀の虜敵りょてきを撃つべし。人はるを知らざることに苦しむ。既に隴を平らげ、復た蜀を望む。一度ひとたび兵を発する毎に、頭髪顎鬚あごひげは為に白し」」

 徐晃が口を開いて曰く「なるほど、世祖が蜀を望んだ故、魏公自身はそうしないと」

 司馬懿は首を傾げる。それを見て、張郃がその不審を問いて曰く「司馬主簿には、御異見ありや」

 司馬懿は首を振り、答えて曰く「いや、世祖のその時のよわいが気になるゆえ。確か世祖がかいごうった最後の手紙に自分は四十になるとあった。劉子陽殿、そうでなかったかな」

 振られた故に劉曄応えて曰く「ああ、確か「囂は文官にして、正しき行い、物の理にさとるを以て、故に復た書を賜う。明言すれば即ち不遜に似たるも、言葉を選べば即ち事は不明瞭となる。今、若し手をつかねて復た隗じゅんの弟を遣わして朝廷に帰せれば、即ち爵禄は全きを得て多大な福となろう。我は四十に成ろうとし、軍に在ること十年に成ろうとす。飾辞しょくじ虚語きょごにはきたり。若し欲せざれば、報じること勿れ」」

 司馬懿曰く「四十で、頭髪顎鬚は為に白し」と劉曄を見やり、夏侯淵らもつられる。

 劉曄は自分の頭髪を窺われていることに気づいて曰く「我も世祖の血筋だが、若白髪は受け継がなかったようだ」

 なるほどと諸将、光武帝が四十で若白髪を気にしていたと、司馬懿の怪訝けげんを思い笑う。

 司馬懿も軽く頷いたが、思うところは違った。世祖は四十代で天下をべた、劉曄の年齢くらいか、主公ははるかに越えている。だが、主公の言、光武帝に対して己の欲の無さを言ったのではなかろう、なあ劉子陽殿。

 諸将が四十は若白髪かどうかを問答する間、司馬懿は横目で劉曄を観察する。司馬懿同様、蜀を攻めるが筋だと諫言するも、意見を頑なに押し付けようとはしない、そういう人物である。求められれば、その職務がそうするものであれば口に出すが、そうでない時は沈黙し、あたかもそこにいないかのように振る舞う。彼なりの処世術のようである。

 司馬懿、己の姿と比べて見る。主公はのうから出るきりを求むも、とがりすぎる事に注視する。ならば如何せん。その解の一つは劉曄である。司馬懿、目立つ生き方を避けようと思った。


 司馬懿、自身の営舎に戻り、再度考える。光武帝が既に隴を平らげと書いた時に、関東で寇賊こうぞくが起っていた。潁川えいせん・東郡に賊が跋扈し、洛陽らくようを逃げ出した元群雄張歩ちょうほ琅邪ろうやに舞い戻っていた。光武帝は車駕しゃがを昼夜問わず走らせ長安に戻り、更に急ぎ洛陽に戻り、賊の平定に尽力じんりょくすることになる。一方、平らげた筈の隴は蜀の群雄公孫述こうそんじゅつの兵が包囲中の隗囂を解放し、漢軍は敗れて、隴を下っていた。外征にかまけて内治をおろそかにした、その付けを払う羽目におちいっていた。隴を得て蜀を望むと言いながら、隴を失っていた。

 ここにおいて司馬懿は主公を思う。無欲な訳ではない。老いゆえの気力の衰えで軍を返すのでもない。光武帝の蜀を望むのをいとって兵を引くのでもない。主公は光武帝の失態しったいを調べたことがあり、この事実を覚えていた故、外征に感けて内治にしくじるをおそれて、蜀を攻めないのだ。漢中を攻めて既に半年、その間、ぎょうを空けている。献帝親派が消え失せた訳ではない。孫権・劉備に内通する者が出てくるかもしれない。主公自身、かつて徐州じょしゅうを攻めている隙を突かれて張邈ちょうばく陳宮ちんきゅうに謀られ、呂布りょふに三城を除いて兗州えんしゅうを奪われた過去がある。よって、そういう事態を懼れたのだ。

 そして劉曄は先祖の失態を知るも、蜀を攻めるが筋と思って諫言したが、いつもの通り深くは訴えなかった。同じく光武帝の失態を知る司馬懿自身、己の進言が正しいと思ったが、勘気かんきこうむってまでいさめ続けるだけの確信と覚悟が無かった。

 果たして、主公は正しかったか。


 長い征西であった。年はまたがなかったが十二月になっていた。魏公はぎょうに還り、夏侯淵を征西将軍となして、徐晃・張郃を率い漢中を守らせた。

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