【改訂版】ギャンブル中毒者が挑む現代ダンジョン配信物【リメイク】
パラレル・ゲーマー
序章
第1話 雀荘のジョーカー、賽は投げられた
湿ったコンクリートの匂いが、肺の奥までじっとりと染み込んでくるようだった。
東京・新宿。歌舞伎町のネオンサインが作り出す、けばけばしい光の洪水から一本路地を入った先。まるで街の血管から追いやられたような暗い路地裏に、その入り口は口を開けていた。雑居ビルの地下へと続く、錆びついた手すりの階段を下りた先にその場所はあった。『雀荘 満貫楼』。時代に取り残されたような古びた看板が、チカチカ……と虫の息のように頼りなく点滅し、訪れる者の顔を不気味に照らしては消す。
店内は紫煙と人の放つ熱気で淀んでいた。自動卓が牌をかき混ぜるカラカラという乾いた音が、まるでこの空間の心音のように絶え間なく響いている。飛び交うのは、くたびれた中年男たちの野太い声と、時折響く高い舌打ち。誰もが皆、目の前の牌だけに意識を集中させ、現実のしがらみを一時でも忘れようともがいていた。
その一角、最もレートの低い卓で、神崎隼人(かんざき・はやと)は静かに牌山を眺めていた。
少し癖のある黒髪が、彼の切れ長の瞳に影を落とす。目の下には濃い隈が刻まれ、血の気の失せた白い顔は、周囲の熱気から切り離されたように冷ややかだ。今年で二十二歳になる彼の風貌は、この場末の雀荘には少し不釣り合いなほど若く、整っていた。だがその身にまとう空気は、周囲の年季の入ったギャンブラーたち以上に老成し、そしてどこか冷え切っている。
向かいに座る金髪の若者が「チッ……またかよ」と悪態をつきながら、点棒を乱暴に卓上へ放る。隼人はそれを無言で受け取ると、その視線は若者の瞳の奥を一瞬だけ射抜き、手元の点棒の山へ無造作に加えた。
彼の点棒は原点を少しだけ上回っている。勝ちすぎず、負けすぎず。トップでもなく、ラスでもない。まるで水面を漂う木の葉のように、彼は常に流れの中心に身を置き続けていた。
この界隈で彼は素性を隠し「ジョーカー」と呼ばれている。
その打ち筋はまさにジョーカーそのもの。必要な時には驚異的な読みと豪運で大物手をアガり、場を支配する。かと思えば、まるで初心者のような不可解な一打で流れを手放し、他人に勝ちを譲る。彼の本当の実力は、この雀荘の誰にも分からなかった。ただ、トータルで見れば彼は決して負けない――それだけが確かな事実だった。
上家(カミチャ)の建設作業員風の男が、不思議そうに話しかけてくる。
「ジョーカーの兄ちゃん、本当に変な打ち方するよな。さっきの俺の当たり牌、なんでピタリと止めたんだ? あんたの目には牌が透けて見えるのか?」
隼人は曖昧に笑みを返すだけだ。その口元に浮かんだ笑みは、まるで能面のように感情が抜け落ちている。答えは単純だ。牌が見えるわけではない。だが、牌を握る男の指先の微かな震え、呼吸のリズム、視線の泳ぎ――それらすべてが男の心を雄弁に物語っていただけのこと。
隼人にとってギャンブルは、金を稼ぐための「仕事」だ。そして彼の仕事場は乾ききってひび割れた大地のようなもの。水をやりすぎれば、その場は潤うどころか腐ってしまい、二度と実りを得られなくなる。細く長く、目立たぬように。他人の財布から、彼らが「まあこれくらいなら」と許容できる範囲の金を少しずつ抜き取り続ける――それが、隼人の生存戦略だった。
(……あと二千点)
心の中で、その日のノルマを計算する。一日七万円。それが妹・美咲の命を繋ぐために、最低限必要な薬代だ。卓が始まって三時間、すでに六万八千円は稼いでいる。あと一回、安い手をアガればそれで終わりだ。
東四局、オーラス。隼人は親番を迎えていた。
彼の瞳が、猛禽のように細められた。対面の金髪の若者の心理の揺らぎを、完璧に捉える。自信、焦り、そして一発逆転への浅はかな欲望。若者の捨て牌は、その内面を映す鏡そのものだった。
隼人の思考が加速する。彼の視界では世界の時間がスローモーションになっていた。若者の呼吸の深さ、点棒を持つ指の震えの周期、卓を叩くリズム。あらゆる情報が隼人の脳内で統合され、一つの「絵」を完成させる。若者が自滅に至る、完璧な絵図を。
確信があった。若者は隼人が安全策を取ると読み、大胆な罠を張っている。そしてその罠に自分がかからないと知った時、必ず動揺し、思考に隙が生まれる。
隼人は、その一瞬の隙を見逃さなかった。
彼は若者が仕掛けた罠の、すぐ隣にさらに深く静かな罠を仕掛けた。そして、相手が動揺から思考のバランスを崩し、思わず安全策として逃げ込んだ先にあったのが、隼人の本当の狙いだった。
あまりにもリスクが高く、あまりにも精密な心理的完全勝利。
「……そ、そんなバカな……」
若者が震える声で呟く。
隼人は表情を変えず、ただ静かに点棒をかき集めた。ノルマを大幅に超える予期せぬ収入。だが彼の心は少しも満たされていなかった。むしろ、スゥ……と冷え切っていくのを感じる。
(……やってしまった。目立ちすぎた。この雀荘ももう潮時か)
彼は席を立つとチップを換金し、誰にも何も告げずに店の重い扉を開けた。背中に突き刺さる畏怖と嫉妬と、そしてわずかな敵意の混じった視線を感じながら。
――――――――――――――――――――
隼人が住むアパートは、西新宿のオフィス街の喧騒から少し離れた、古い木造建築が密集する一角にあった。ギシリと悲鳴を上げる階段を上り、二階の突き当りにある自室のドアを開ける。
中は「男の一人暮らし」という言葉で片付けるには、あまりにも殺風景だった。最低限の家具と、コンビニ弁当の空き容器が転がる小さなテーブル。窓の外に見えるのは隣のアパートの汚れた壁だけだ。まるで隼人の未来を暗示するかのように、光を遮っている。
部屋の隅に置かれた小さな机の上だけが、この部屋で唯一、隼人の人間性を感じさせる場所だった。窓から差し込む月光が、そこだけをスポットライトのように照らし出している。そこには一枚の写真立てが置かれている。屈託のない笑顔でピースサインをするショートカットの少女――彼の三歳下の妹、美咲だ。
写真の横には、山のように積まれた封筒があった。差出人はすべて同じ大学病院。中身を見なくても分かる。治療費の請求書と、検査結果の通知だ。その白い封筒の山は、まるで墓標のように見えた。
隼人はポケットからスマートフォンを取り出し、メッセージアプリを開く。画面の冷たい光が、彼の顔を青白く照らす。美咲からの新しいメッセージが一件届いていた。
『お兄ちゃん、今日もありがとう。もらったお金のおかげで、ベッドから出られないけど頑張って絵を描いてるよ』
隼人はそのメッセージを見つめながら返信を打つ。彼の親指が画面の上で数ミリ浮いたまま、止まる。
『そりゃ良かった。無理だけはするなよ』
短い素っ気ない文章。だがその一文を打ち込むのに、彼は数分を要した。
美咲は一年前に原因不明の難病を発症した。『環境魔素不適合症』。それが医者から告げられた病名だった。ダンジョンが世界に出現して以降、大気中に微量に存在するようになったとされる未知のエネルギー粒子「魔素」。ほとんどの人間には何の影響もないその粒子が、ごく稀に特定の体質を持つ人間の免疫系を暴走させ、内側から体を蝕んでいくのだという。
治療法はまだ確立されていない。海外で臨床試験中の高価な新薬を使い続けるか、あるいはダンジョンから産出される極めて希少な素材を使った対症療法を行うしかない。どちらにせよ、かかる費用は桁違いだった。健康保険は適用されず、すべてが自由診療。毎月数百万という金が、まるで乾いた砂に吸い込まれる水のように消えていく。
両親は七ヶ月前に事故で亡くなっている。頼れる親戚もいない。隼人が、たった一人で美咲の命を支えなければならなかった。
高校を中退し、必死で働いた。だが学歴のない若者が稼げる金額など、たかが知れている。そんな彼に残された唯一の才能がギャンブルだった。異常なまでの記憶力、観察眼、そしてリスクを恐れない精神。彼はその才能を武器に裏社会の賭場を渡り歩き、妹の治療費を稼ぎ続けてきた。
だが、それももう限界だった。
雀荘で稼いだ数万円の現金と、机の上の請求書の束を見比べる。あまりにも現実の壁は高く、分厚い。
その時、ブブッ……ブブッ……とスマートフォンの画面が着信を告げた。表示されたのは非通知の番号。
嫌な予感が背筋を走る。無視を決め込もうとしたが、執拗に鳴り続ける着信音に根負けし、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『よう隼人。ちまちました稼ぎじゃ、薬代にもならねえだろ』
スピーカーから漏れ出る、ねっとりとした蛇のような男の声は、まるで耳の中に直接毒を流し込まれるような不快感を伴った。隼人が一億円もの大金を無利子で借りている、非合法ポーカーハウスの元締めだ。
「……なんの用です」
『お前は俺が見つけた原石だ。あんな薄汚ねえ雀荘でくすぶらせておく気はねえ。俺の下でもっとデカい勝負をしろ。そうすりゃ妹さんの薬も、こっちで手配してやる。金の心配はもうしなくていい』
甘い誘いの言葉。だがその裏にある毒を、隼人は正確に理解していた。これは罠だ。自分を完全に支配下に置くための、巧妙な罠。
「断る。俺は俺のやり方でやる」
『……そうか。なあ隼人。お前が泣きついてきた時、俺がなぜ無利子でお前に一億貸したか分かるか? お前という才能に賭けたからだ。その才能の使い道は俺が決める。俺の庇護(てのひら)の下にいろ。それがお前が妹さんを守る唯一の方法だ』
一方的に通話が切れる。
隼人はスマートフォンを握る手に力を込める。ミシリとケースが軋む音がした。壁に叩きつけたい衝動を、奥歯を噛みしめて必死にこらえた。
(限界だ……)
このちまちましたハイエナのような連中と関わるのは、もう限界だ。リスクばかりが膨れ上がり、リターンはあまりにも少ない。このままでは自分が潰されるか、美咲を見殺しにするか、どちらかを選ぶことになる。
もっと大きな賭場へ。
もっとクリーンで、レートが青天井の究極のテーブルへ。
でなければ、この状況は絶対に覆せない。
隼人は、まるで何かに導かれるようにアパートを飛び出した。
――――――――――――――――――――
夜の新宿は眠らない。
隼人は当てもなく人波の中を歩いていた。ネオンサインが降りしきる雨のように彼の全身を濡らし、思考を麻痺させていく。先ほどの電話の男の声が、耳の奥で不快なエコーのように響いていた。
自分の無力さが歯がゆかった。どんなにギャンブルで才覚を発揮しようと、裏社会の汚いルールの中では結局、自分は弱い獲物でしかない。
ふと、彼は足を止めた。
西新宿の超高層ビル群の一角。その壁面に設置された巨大な街頭ビジョンがまばゆい光を放ち、夜空を昼間のように照らしていた。
そこに映し出されていたのは、現代の英雄であり、子供たちの憧れであり、そして隼人のような人間にとっては別世界の住人――トップ探索者(シーカー)の姿だった。
『――速報です! SSS 級探索者ギルド『ヴァルハラ』のギルドマスター “雷帝” 神宮寺猛(じんぐうじ・たける)選手が、新宿に出現した A 級ダンジョン『魔狼の巣』の最深部ボス『フェンリル』の討伐に、史上最速タイムで成功しました!』
アナウンサーの興奮した声と共に映像が切り替わる。
そこは、雷鳴が轟く荒野のような場所だった。体長 10 メートルはあろうかという、銀色の毛並みを持つ巨大な狼が咆哮を上げている。その前に、たった一人で立つ男の姿。金色の鎧を身にまとい、その手には雷をまとった片手ハンマーが握られている。彼こそが日本最強の探索者、“雷帝” 神宮寺猛。
次の瞬間、神宮寺がハンマーを振りかぶると、天から幾筋もの稲妻が落ち、巨大な狼を打ち据えた。狼は悲鳴を上げる間もなく光の粒子となって消滅し、後には山のようなドロップアイテムと、ひときわ大きく輝く S 級の魔石が残された。
配信画面には視聴者からのコメントと、賞賛の証である「投げ銭(スーパーギフト)」が滝のように流れていく。
『雷帝最強!』
『神すぎる!』
『一撃とかヤバすぎだろ www』
画面の隅には、リアルタイムで集計されるスーパーギフトの総額が表示されている。『¥134,582,900』。
たった数時間の配信で、一億を超える金が動いている。
隼人は、まるで天啓を見るかのようにその非現実的な光景を、ただ呆然と見上げていた。その切れ長の瞳に雷帝の放つ黄金の稲妻が映り込み、一瞬だけ彼の冷え切った瞳に熱が宿る。周囲の雑踏の音は、ホワイトノイズのように遠ざかっていた。
ダンジョン。
今からわずか十年前、世界の主要都市に突如として出現した謎の異空間。当初は人類の脅威とされ、自衛隊や軍隊が投入されたが、近代兵器の効果は薄く、甚大な被害を出した。
だが人類は、新たな力に目覚めた。ダンジョン出現と時を同じくして、一部の人間に「スキル」と呼ばれる超常の力が発現したのだ。彼らは「探索者」と呼ばれ、ダンジョンに潜り、内部のモンスターを討伐し、現代科学では生成不可能な素材やエネルギーの結晶である「魔石」を持ち帰ることで、富と名声を得るようになった。
ダンジョンはもはや災害ではない。それは新たな資源を生み出す「鉱脈」であり、人々を熱狂させる「エンターテイメント」だった。
隼人にとって、それは全く別のものに見えていた。
彼の目に映っていたのは、英雄の活躍ではない。華やかなエンターテイメントでもない。
それは、地上で最も巨大で、最も過酷で、そして最も公平な――究極の「賭場」の姿だった。
モンスターは、決してイカサマをしないディーラーだ。彼らはただ己の法則に従って、探索者に襲い掛かる。
ドロップアイテムは、純粋な確率論と、ほんの少しの幸運によって配られる配当(チップ)だ。そこに裏社会のような汚い駆け引きは介在しない。
そして、死は絶対的なゲームオーバーを意味する。コンティニューはない。
リスクは己の命一つ。
リターンは青天井。億単位の金が一夜にして手に入る可能性がある。
(……これだ)
これこそが、俺が求めていたテーブルだ。
隼人の心臓がドクンと大きく脈打った。雀荘で数え役満をアガった時とも、ポーカーで相手のブラフを見抜いた時とも違う、本物の興奮。それは、魂が震えるような、ギャンブラーとしての本能的な歓喜だった。
自分の才能――異常なまでの観察眼と記憶力、リスクを的確に計算する分析力、そしてここ一番で全てを賭けられる狂気。それらすべてを最大限に活かせる場所が、ここにあった。
「……やってやる」
誰に言うでもなく、隼人は呟いた。その声は雑踏にかき消されるほど小さかったが、鋼のような決意に満ちていた。
人生最大のギャンブルを。この腐った日常を、たった一回の奇跡でひっくり返してやる。
決意は固まった。
翌朝、隼人は銀行へ向かい、通帳に入っていたなけなしの金を一円残らず引き出した。総額二十三万四千円。雀荘やポーカーで稼ぎ、妹の治療費の足しにと、少しずつ貯めていた彼の全財産だった。
その金を持って彼が向かったのは、秋葉原だった。
かつては電気街・オタクの聖地と呼ばれたこの街も、今やその様相を大きく変えている。大通りには最新の VR 機器やドローンを扱う店の隣に、「探索者ギルド募集」の看板や、中古の魔法の剣を扱う武具店が軒を連ねていた。
隼人はその中でも特に古びた個人経営の武具店に足を踏み入れた。カラン、とドアベルが乾いた音を立てる。
「いらっしゃい。お兄ちゃん、見ない顔だな。探索者デビューかい?」
カウンターの奥から、無精ひげを生やした店主が顔を出す。
「……一番安い武器と、配信用のカメラを」
隼人が短く告げると、店主は「はいよ」と頷き、店の隅から二つの品物を持ってきた。
一つは鞘もない刃こぼれした短いナイフ。おそらくゴブリンか何かのドロップ品を、最低限使えるようにしただけの代物だろう。値段は五千円。
もう一つはコンタクトレンズ型の AR カメラ。これも数世代前の型落ち品で、画質も悪く、長時間の使用には向かないという。値段は二万円。
「ほらよ。これだけあれば一番下の F 級ダンジョンなら、なんとかなるだろ。健闘を祈るぜ」
店主は商品をカウンターに置きながら、隼人の顔をじろじろと見た。その目にわずかな同情の色が浮かんでいる。おそらく彼のような若者が、夢と現実の区別もつかぬままダンジョンに挑み、命を落としていく姿を、これまで何度も見てきたのだろう。
隼人は何も言わずに代金を支払った。
店の外に出ると、手元には二十万円と少しの現金、そしてチープなナイフとカメラが残った。
――これが俺の最初のチップだ。
あまりにも心もとなく、あまりにも無謀な賭け。だが隼人の心は、不思議と凪いでいた。
彼は空を見上げる。灰色の雲の向こうに、まだ見ぬ戦場(テーブル)が広がっている。
「さてと」
隼人は短く息を吐いた。それは絶望の溜息ではなかった。これから始まる人生最大のギャンブルを前にした、勝負師の静かな呼吸だった。彼はナイフの柄を強く握りしめた。冷たい鉄の感触が、彼の熱を帯び始めた決意を現実へと繋ぎ止める。
まずは、このギャンブルに参加するための資格を手に入れなければならない。
彼の足は自ずと、探索者登録センターへと向かっていた。
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