嘘がつけない作家

鈴木

私は嘘がつけません

吾輩は名もなき作家である。名前はまだ無い。という某文豪の冒頭文を真似した。なんともつまらない。特に売れてもおらず、某投稿サイトに数個上げるくらいの小説を書くだけの未熟者だ。投稿しても反応は薄く、コメントは数えるほど。だが、それでも書くことをやめられない。書かずにはいられない。それが私の性質なのか、それとも呪いなのか、まだわからない。


そんな私には、致命的な欠点がある。嘘を書けないのだ。現実に起きえないこと、あり得ない展開、作り話――そういうものがどうしても筆に乗らない。ファンタジー、ホラー、異世界転生…どんなジャンルも、頭の中でぐるぐる思い描くことはできても、紙に書こうとすると手が止まる。書けない。書きたくても書けない。悔しさに耐えかねて、パソコンのデータを破ることすらある。先日は、うっかりコーヒーをこぼしてキーボードの上にかけ、半日かけて乾かした挙げ句、結局最初から書き直す羽目になった。まさに自業自得だが、妙な達成感があったのも事実である。


日常と向き合うだけなら、書くことは比較的簡単だ。朝起きて、電車に揺られ、スーパーで買い物をして、家で夕食を作り食べる。そんな些細なことでも、文章にすれば少しは形になる。だが、それでは読者を夢中にさせることは難しい。現実しか書けない私は、フィクションの扉の前で立ち尽くすばかりだ。


本屋の小説コーナーに立つと、ふと異世界転生ものが目に入った。色鮮やかな表紙に、現実ではありえない衣装や魔法の描写。ページをめくると、主人公が異世界で力を手に入れる様子や、予想もつかない冒険が描かれている。羨ましい。現実では書けないことを書ける人たちが、こんなにも簡単に読者を夢中にさせられるのか――そんな思いが、胸の奥で小さく渦巻いた。


「転生異世界ものを書いてみたい」と、私は呟いた。声に出すと少し恥ずかしい。ついでに隣にいた中学生らしき女の子に、変な人を見る目でチラッと見られた。私は目を逸らし、必死に「いや、これは小説の話だ」と言い訳するも、当然伝わらない。現実は、いつもこんな調子で小説へのモチベーションを試すのだ。


その気持ちを抱えながら投稿サイトを見返すと、うろ覚えに投稿したコンテストの1次選考が通っていた。信じられない。これは現実なのか、夢なのか、わからなくなる。画面を何度も確認し、少し浮かれた気持ちでスーパーへ向かう。


スーパーで少し高めの筋子を選び、米と一緒に夕食にした。筋子を丁寧に切り離しながら、「この粒のように、アイデアも少しずつほぐれてくれたらいいのに」と考える。熱い米と冷たい筋子が合わさり、ちょうどいい温度になった。思わず米をおかわりする。ついでに、箸を落として床に転がすというお決まりの失敗もしたが、それすら可笑しくて笑ってしまう。日常の些細なことが、創作への希望に変わる瞬間だ。


嘘をつけずに作品を書くのは難しい。だが、この現実が混じった作品を通じて、読者に何かを伝えられればと思う。小さな日常の描写や、些細な感情の動きに共感してもらえるなら、それだけでも価値はある。だが、同時に私はフィクションも書きたい。本屋へ向かい、小説の棚をゆっくりと歩く。まだ見ぬ異世界がちらついている。筋子の粒のように、アイデアが少しずつほぐれ、私の頭の中で異世界の物語が形を取り始める。その期待感に、胸が少し高鳴る。


日常の延長で、現実と幻想の境界を行き来しながら、私は小説を書き続けるだろう。嘘をつけない作家であることは、時に不便だ。だが、それでも現実の中で見つけた小さな出来事や、思わず笑ってしまうような瞬間が、物語の核になるかもしれない。筋子の粒をつまみ、米を口に運びながら、私は心の中でそっと誓った――いつか、異世界の物語も書いてみせる、と。

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嘘がつけない作家 鈴木 @fable_crafter

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