名前のない愛をしていた
サファイロス
第1話 春に取り残された僕ら
春の雨は、やけに冷たかった。
灰色の雲の下、大学へと続く坂道を、朝倉蓮はゆっくりと登っていた。
桜はもう散りかけ、地面には淡い花びらが濡れて張り付いている。
傘の縁を叩く雨音が一定のリズムを刻み、心の奥に沈んだ思いを呼び覚ます。
(あの日も、こんな雨だったな)
胸の奥で、誰にも聞こえない声がつぶやいた。
彼女が消えた日。
水瀬梨乃。
その名前を心の中で呼ぶたび、痛みがまだ新しい傷のように疼く。
事故で記憶を失ってから、梨乃は姿を消した。
蓮はどれほど探しても見つけられず、時間だけが過ぎていった。
それでも、春の雨を見るたびに、彼女の笑顔が浮かぶ。
雨音に混じって、かすかに彼女の声が聞こえるような気さえした。
蓮くん、傘、入れてもいい?
その幻のような記憶を振り払うように、蓮は傘の持ち手を強く握った。
もう二年が経つ。
忘れようとしても、忘れられない。
そんな思考のまま、大学の図書館の前に着いたときだった。
自動ドアの向こう、ガラス越しに見慣れた横顔があった。
本を抱え、静かにページをめくる女性。
淡い栗色の髪が肩にかかり、白いカーディガンの袖口が少し濡れている。
まるで、時間が巻き戻ったように。
蓮は呼吸を忘れた。
傘を閉じ、無意識に館内へと足を踏み入れる。
冷たい空気と紙の匂いが混じり合い、鼓動がうるさいほど響いた。
(そんなはず、ないだろ……)
でも、見間違いではなかった。
水瀬梨乃――彼女がそこにいた。
蓮は一歩、また一歩と近づく。
心臓の音が耳の奥で跳ね、声が喉に引っかかる。
やっと、言葉がこぼれた。
「……梨乃?」
静寂を裂くように、その名前が空気に滲む。
ページをめくる音が止まり、彼女がゆっくり顔を上げた。
大きな瞳。あの日と同じ、柔らかい焦げ茶色。
けれど、その瞳に“懐かしさ”の光はなかった。
「……どなた、ですか?」
たった一言。
それだけで、蓮の世界が崩れた。
胸の奥がぐしゃりと潰れたような痛みが走る。
目の前の彼女は、確かに梨乃なのに――。
「……あ、すみません。人違いでした」
かろうじて笑みを作り、蓮は一歩引いた。
梨乃は一瞬だけ不思議そうな顔をしたが、すぐに微笑んで頭を下げる。
その仕草さえ、懐かしい。
だが、彼女の微笑みに“記憶”はなかった。
彼女は静かに席を立ち、カウンターで本を返す。
雨音に混じって、館内のスピーカーから閉館のアナウンスが流れた。
その間、蓮は何もできずに立ち尽くしていた。
梨乃が傘を手に外へ出ると、彼女の足元を春の雨が濡らした。
傘越しの光が揺れ、白い息が薄く溶けていく。
その後ろ姿が角を曲がって消えるまで、蓮はただ見送っていた。
――本当に、忘れてしまったんだな。
指先が震えた。
あの事故のあと、医師から「記憶喪失の可能性がある」と聞かされていた。
けれど、心のどこかで信じていた。
“きっと、どこかでまた僕を思い出してくれる”と。
期待なんて、とっくに終わっていたはずなのに。
それでも、彼女の瞳を見た瞬間――
胸の奥の古い炎が、まだ消えていなかったことを思い知らされた。
机の上を見ると、一枚の貸出カードが残っていた。
濡れた指で拾い上げると、そこには確かに“水瀬梨乃”の名前。
だが、連絡先の欄にはもうひとつの名前があった。
東雲結香(しののめゆか)
蓮は息を呑んだ。
東雲結香――かつて梨乃の同居人であり、事故のあと彼女を引き取った女性。
年上で、冷静で、どこか影のある人。
彼女の存在が、蓮の胸にざらりとした不安を残す。
(彼女が……梨乃を?)
思考が渦を巻く。
どうして、梨乃がまたこの街に?
結香はどんな意図でここに?
蓮の心は嵐のように揺れていた。
図書館を出ると、雨は小降りになっていた。
夕暮れの街灯が雨粒を照らし、歩道にぼんやりと光を散らす。
蓮は傘を開いたまま、しばらくその場に立ち尽くす。
もう一度、彼女に会うべきか――
それとも、これ以上踏み込むべきではないのか。
けれど、答えはすぐに出た。
彼女の「どなたですか」が、胸の奥で何度も反響する。
それが痛みであるほどに、彼女をもう一度知りたくなる。
「……もう一度だけ、会ってみよう」
小さく呟いた声は、雨音にすぐ飲み込まれた。
だが、その決意だけは確かだった。
蓮は貸出カードを胸ポケットにしまい、静かに歩き出す。
その瞳には、痛みと希望の境界線が、まだはっきりと残っていた。
雨の匂いが街を満たす中、
彼の心だけが、春に取り残されていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます