海ノ大神年 蝉羽月二十五日

海ノ大神年 蝉羽月二十五日 第一話

 気持ちのいい昼寝の微睡みに終わりを告げたのは、窓に打ちつける雨音だった。

 不規則なリズムも耳に心地いいが、雨の中海釣りをしてみたいという気持ちの方が眠気に勝った。

 雨という気候条件下なら、釣れるきおくも変わってくるかもしれない。いつもは見られない珍しいきおくを是非とも釣り上げたい。



 まだ眠気眼のせいか、ふらふらとする。念のため手すりに掴まりながら階下へ下りていると、ピアノの旋律が聞こえた。

 L字ソファ横のサイドテーブルにレコードプレーヤーが置かれていた。針が置かれているのはレコードじゃなくて、魚だったけど。

 初めて見た時は驚いたけど、今では見慣れた光景だ。



「いい曲。なんて題名タイトル?」


「『ベルガマスク組曲四番パスピエ』、ドビュッシーが作曲したものだよ」



今朝縁が釣り上げていた記憶は、どうやらピアノ演奏の記憶だったらしい。

 音楽にまつわる記憶は大抵見るだけでなく、こうして聴くことも出来た。毎度釣れる度に聴いているわけではないけど、私が昼寝している間雨が酷くて釣りをするのが難しかったらしく、せっかくだからと聴くことにしたのだと言う。



「改めて思うけどすげえよな、まさかレコードにまできおくを使えるなんてさ」


「ほんとにね」



釣りが出来ず退屈そうに大水槽を眺めていた惺大も、奏でられる音楽に耳を傾けていた。



「雨を思わせる旋律」


「俺もそう思った。雨っぽいよな、なんか」



もし今雨が降っていなかったら、もっと違った風に聞こえたかもしれない。だけど今は外の雨音と合奏しているように聞こえるほど、旋律から雨らしさを感じる。

 雨の降り方の緩急、海面に激しく打ちつける雨粒やそのまま静かに海に溶けてしまうような勢いの弱い雨粒のひとつひとつを感じられる。

 音楽は、聴く人や聴いているその時々の状況で、曲に抱く印象が変わるのが楽しい。きっとこの曲にも、作曲者が意図した解釈以外に色んな解釈があるだろう。



 ピアノの演奏を聴くのが好きで、社会人になってからはよくコンサートへ足を運んでいた。

 曲はショパンが好きでその分聴くことも多かったけど、この曲も好きだ。

 生きている時に、生演奏で聴いてみたかったな。



「ねえ、二人には、音楽が記憶と結びついていたっていう経験はある?」



控え目に投げかけられた問いは、縁のものだった。



「あるぜ。タイトルは忘れたけど、その曲を聴くと妹のピアノの発表会のことを思い出す。初めて舞台に立つもんだから、肩に力が入ってて今にも泣き出しそうで…客席にいた俺の方が泣きそうだったのをよく覚えてるよ」


「私にもそういう経験あるよ」



そう、と少し寂し気に呟く縁。彼にはもしかすると、そういった経験がないのかもしれない。

 縁には、生前での体験が乏しい印象がある。私より年上に見えるからと言って、その全ての年月を不自由なく過ごせたとは限らない。色んな体験が出来るような状況下になかったのかもしれないと、勝手に想像して勝手に切なくなった。

 そんな風に決めつけて、失礼な話だ。だけど、縁に彼自身のことを尋ねる勇気はなかった。



「縁にとって、この曲はきっと今日のことを思い出す思い出の曲になるよ」


「だな」



にかっと笑う惺大を真似て、私も小さく笑って見せる。消沈している様子だった縁も、少し嬉しそうに嘆息した。



「そうだね」



彼はそう言っていつもの微笑みを浮かべ、少し弱まった雨の降る船外へ視線を向けた。



「漓宛も起きて、雨も弱まってきたみたいだし、惺大の要望通り雨の海釣りをしようか」



レコードプレーヤーの上に横たわるきおくから針を上げて、席を立つ縁。

 私も惺大も目を合わせ、早速釣竿を手に取り雨に濡れることも構わず外へ駆けだした。

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2025年12月10日 06:00
2025年12月10日 18:00
2025年12月11日 06:00

隠世の海 青時雨 @greentea1

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