海ノ大神年 五月雨月十一日 第三話

 生憎の曇り空で、朧月が時々顔を出す。

 隠世に来てからあまり時間を気にしたことはないけど、感覚的には今頃深夜一時くらいだろう。

 夜になると沖からでも岸辺を見れば、ぼんやりと暖色の灯りが見える。あれは来世へと向かう亡者が道を見失わないように、仕者が手に持っている行燈あんどんの光らしい。

 昼夜関係なく、人は死ぬ。



「ねえ縁、聞いてもいい?」


「いいよ、なにかな?」



惺大にも視線を向けてから、少し緊張で震える口を開く。



「来世や牧場への列から抜けて、こうして隠世に留まってる私や惺大が隠世ここで得た記憶ってどうなるの?」



いつか訊かれると思っていた、と言わんばかりの悟った表情で縁は横になった。



「…万が一にも前世の記憶が流し切れていなくて、来世へ隠世の記憶を持ったまま旅立ってしまったらいけない。それはわかるね?」



胡坐をかいて座っていた惺大も、両腕を組んでそこに頭を乗せるように寝転がった。

 二人を見下ろすように、私は座ったまま縁の紡ぐ次の言葉をじっと待った。



隠世ここに関する全ての記憶は消滅する仕組みになってる」



私も縁ほどじゃないけど、もうそれなりに隠世のことを知っているつもりだ。だから、彼の言葉の意味するところがどういうことなのか、瞬時に理解出来てしまった。



「つまり、三人で過ごした全ての記憶は隠世の海に残ることがない……ってことか」



あまりの寂しさに私が口に出来なかったことを、代わりに口にしたのは惺大だった。

 前世の記憶と違って漱がれることもなく、かけがえのない隠世での記憶は跡形もなく消されてしまうということだ。

 それって、初めから何もなかったかのようになるってこと?。そんなの――



「それなら私、ずっとここにいたい」



そうすれば、この記憶が消えることはないから。

 けれど、縁は柔らかな笑みを浮かべながら私を見上げて首を横に振った。



「いつかは来世へ行きたくなる。人間は生に焦がれる生き物として創造されているからね」


「でも縁は長い間ここにいるんでしょ?」



彼は微笑むだけで、それ以上何も答えてはくれなかった。

 代わりに、縁は誰に言うわけでもなく小さな声で呟いた。



「生を求めるのは自然なこと。それでいいんだよ」



泣きたくなった私は、涙を誤魔化しながらあえて縁と惺大の間に移動して、そこで横になる。そうすれば少しだけ、寂しさが紛れる気がしたのだ。



 絶対に来世になんか行かない、と言いたかったけど先の縁の言葉を否定するようで口に出来なかった。

 きっと縁には確信があるのだ。

 これまで共に海釣りをした亡者はみな、列を抜けても最終的には来世へと旅立つ道を選んだのかもしれない。だからそんな風に言うのだろう。



 私は自信を持って、例外になれると言えるだろうか。

 言えない自分がいることに気がつきたくなくて、目を強く瞑る。「来世はきっと前世よりも…」と希望を抱いてしまう自分が愚かで、でもその何の保証もない希望を捨てきれない。どこかで、気持ちが来世へと向かおうとしてしまう。

 これは人間の性なのかもしれない。だとしたら、そんな風に人間を創った創造の神様は、意地悪で残酷な神様だ。



「…縁や漓宛ちゃんが残っても、俺はいずれ来世に行く。記憶が消滅したとしても、きっとこのえんは消えないと思うんだ」



気休めだとしても、惺大の言葉に救われる心地がした。

 もしも来世へ行ったとしても、またこの三人が会える日が来るかもしれない。信じる分には、自由なはずだ。



「相変わらず、惺大はポジティブだね」



彼のそういう一面に救われている部分は大きいのだけど、そこは言ってあげない。惺大と違ってそんなに素直な人間じゃないから。



「……消えないといいな」



心の底から絞り出したような声。

 自分でも切望するようにそんなことを口にしたことに驚いたのか、縁は口を両手で塞いで瞠目していた。



「だな」



くしゃりと笑う惺大につられて縁と私も笑む。

 三人で笑い合えるこんな幸せな時間が、出来るだけ長く続きますように。

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