山ノ大神年 限り月二十一日 第三話

 複雑に枝分かれしていた廊下を難なく進む縁が私たちに「ここだよ」と声をかけたのは、波の絵が描かれた大きなふすまの前だった。



「先に僕が」



襖の前で足を止めた縁は、肩越しに振り向いてそう囁いた。しかし――



「その必要はありません」



襖の向こうから、荒波のような美声が耳朶じだを打つ。



「三人ご一緒にお入りなさい」



その声を聴いてさっさと襖を開けてしまう縁に代わるように、私と惺大は「失礼します」と頭を下げて告げる。

 顔を上げた先、薄暗がりの中に海の神様――浪華ろうか様が鋭い目つきでこちらをじっと見ていた。黒にさざなみ柄の着物に白群びゃくぐん色の帯を締めているその凛とした姿は、海そのものと言ってもいいほど恐ろしくも美しい。

 襖の奥は和室になっていたので、浪華ろうか様の姿に目を奪われている惺大を肘でこずき、畳縁たたみべりを踏まないよう小声で注意を促してから中へ足を踏み入れる。



「随分と大勢でいらしたこと。…頼んだ品はその鉢へ」



指示された通り、床の間に置かれた大きな硝子の鉢へ持って来たきおくをフィッシュバッカンからそちらへと移す。曲線を描いたまあるい形で縁がうねうねと波打っているその鉢は、まるで大きな金魚鉢のようだ。

 鉢の中で元気よく泳いでいることから察するに、鉢の中に張られていた水は隠世の海水なのだろう。



「そこへお座りなさい」



言われるまま座敷に正座する縁を挟むように、私たちも同じように座る。

 冷たさを伴った沈黙に、背筋が自然と伸びた。



「……あなたがこれほど沢山の屑を持って来るということは、その分隠世の海は屑で汚されているのね」



縁は浪華ろうか様から一切目を逸らさず、薄い微笑みを浮かべている。いつものような優しさの滲むものではない、必要だから仕方なくといった形式的な笑みだった。



「それに縁、亡者を連れて来るなんて勇気があるのね。もしかして、わたくしに喧嘩を売っているのかしら」



悠然とした笑顔で話しているけど、浪華ろうか様は静かに怒っている。ヒリついた空気を肌で感じた。

 そんな海の神様に怯むことなく、縁は口を噤んだまま黙っている。



「…まあ、生前海を汚した人間ではないようだから屋敷に入れてやったのだけれど。それで、隠世の海はどうかしら」



促されて初めて縁は口を開いた。



「残念ではございますが、先にここへお邪魔させて頂いた時分よりも、事態は深刻かと存じます」


「そう…。人間をこれ以上増やすのはどうなのかと追及したけれど、あの様子では他神の言うことには耳を貸さない心づもり。それでもあの烏鵲うじゃくのこと、いつかは人間創りにも飽きるでしょう」



浪華ろうか様は大きなため息を吐いて立ち上がる。着物の裾が擦れる音がまるで渚の音のようで、一瞬海にいる心地になった。

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