山ノ大神年 辜月十二日

山ノ大神年 辜月十二日 第一話

 鱗雲がジンベエザメのような形状に集まっている空は依然として遠い。

 夏は雲に手が届きそうだと錯覚するくらい近くに見えるのに、この時期になると地上から一線を引くようにより空が遠くなる。

 今日も釣りを…しているはしているけれど、なかなか釣れないので髪いじりをしていた。

 頼んだらあっさりと了承してくれた縁の髪を、弾む気持ちで編み込みにしていく。



「楽しいかい?」


「うん。よく学校でも友達の髪結わせてもらってたんだ」


「そうなんだね。君は髪を伸ばさないの?」



昔は長く伸ばしていた、腰に届きそうなくらいまで。

 ヘアアレンジが好きで、難しいアレンジにも果敢に挑戦していた。練習中の失敗すら、楽しんでいた覚えがある。


 けど、兄さんと同じになれば私も愛してもらえるかもしれないと思い始めた頃に、髪をばっさり切った。

 躊躇は、なかったと言えば嘘になるかな。


 結局、兄さんと同じ髪型にしても愛されることはなかったし、寧ろ「何の真似だ」と怪訝そうに咎められたけど、それからはずっとこの髪型にしている。

 髪を伸ばしたらもう二度と愛されるチャンスなど来ないと、自分に縛りを課してしまったせいかもしれない。



「まあ、ジンクスみたいなものかな」



頭の上に疑問符を浮かべる縁だったが、ここは軽く受け流させてもらう。彼だけなら話してもいいかと思ったけど、惺大も隣にいるので話し難い。



「長い髪もアレンジとか出来て楽しそうだけど、その髪型結構好きだな。俺もそういう髪型にしてもらえばよかった」



そう言って無造作に髪をかき上げる惺大。病院で過ごしている時間が長かったから、散髪屋に行く機会もなかなかなかったのかもしれない。



 釣竿に反応があった。

 編み込んだ髪もそっちのけで、急いでリールを巻いていく。



「待って、惺大の釣り糸と絡まって引っかかっちゃったみたい」



きおくが暴れて、近くで釣り糸を垂らしていた惺大の釣糸もどうやら巻き込まれたらしく、釣竿がガタガタと揺れている。



「じゃあこっちも引くよ」



そうこうしているうちに二人で釣り上げたのは、二匹のきおくだった。



「今日はもう一匹も釣れなさそうだったのに、二人とも運がいいね」



褒められ慣れていないので、ただ無言で黙々と魚を釣り針から外す。



「片方はアジかな?」


「合ってるよ縁さん」


「この前ノルマを達成した際に覚えたからね」



アジに視線を落としていた彼は、次にもう一匹の魚に視線を移す。



「こっちはなんていう魚?」



こちらもアジと同じであまり大ぶりな魚ではない。銀色と茶色の身体には、黄色いひれが目立つ。

 私にも、何の魚だか全く見当がつかない。



「これはイサキだよ」



聞いたことのない魚だ。

 「これは他人の記憶だ」と呟いてから触れてみる。

 見えてきたのは、美容室の店内のようだ。

 先輩の仕事ぶりに憧れの眼差しを向けながら、自分もいつかあそこに立ってお客様の髪を切ることを夢見ている景色。

 手にはモップを持っていて、切られて床に落ちた髪の毛をそれで一か所に集めていた。



「どんな記憶が見えた?」


「美容院のアシスタントの女の子の記憶だったよ」



平静を装って答えたけれど、私はすぐにイサキから手を離した。

 痺れたからではない。この美容院に見覚えがあったから、続きを見たくなくて咄嗟に手を離した。

 たぶんこの記憶は、私が通っていた美容院にいた子の記憶だ。どうして亡くなってしまったんだろう…。



 とても釣りを続ける気分にはなれなかったので、少し休憩すると言って釣り座を離れた。腕には鳥肌が立っている。

 身近な人間の死を、何の前触れもなく知るのは気分のいいものではなかった。

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