山ノ大神年 初霜月九日 第二話

「え、一度も?」


「うん」



長く隠世の海釣りをしている縁でも見たことがないと言うのだから相当珍しいか、あるいは死んだ時の記憶など存在しないのか。



「死ぬ直前は記憶になっても、死ぬ瞬間は記憶にならないとか?」


「確かに死の時は記憶になりえないまま、隠世へ来ている可能性はあるね」



二人のやりとりを聞いていて、〝回想〟を釣り針につけ終えて私も考えを口にする。



「生まれた瞬間の記憶がないように、死ぬ瞬間の記憶もないんじゃない?」


「隠世から現世へと向かう嚆矢こうしと、現世から隠世へ向かう終焉しゅうえんに記憶はない、と。興味深いね」


「自分がどうやって死んだか思い出したくなくて、珊瑚礁とか海星ひとでとか釣竿では釣れない海洋生物きおくになってるだけかもしれないけどね」



覚えていないだけで、それらの記憶も本当はあるのかもしれない。ただ記憶として認識する前に忘れ去られたから、きおくの形をしていないだけかも。



「私だって、どうやって自殺したかなんて思い出したくもないし」



 勢いでうっかり口を滑らせてしまった。

 縁には少し前に打ち明けたことだけど、惺大には当然話してなんかいない。

 どんな反応をされるだろう。

 それが怖くて必死に別の話題を探してみるけど、焦っているせいか咄嗟には思いつかなかった。

 この場から逃げてしまおうと、釣り座から腰を上げたタイミングと惺大の声が重なる。



「死んだ時のことなんて、思い出したくないよな。俺病気で死んだんだけど、辛かった覚えしかねえもん。って言うか、魚以外の海洋生物に記憶が姿を変えてるって発想はなかったわ。ウミガメとかもいるのかね?」



何でもなかったかのように、さりげなく話題を変えてくれた。



「そ、そうだね」



まだ動悸がしているけど、なんとか平静を装いながら浮かせた腰を下ろす。

 気は進まないけど、惺大に感謝しなければ。というより、惺大に抱いていた印象を改める必要がある気がする。正直こんなに気を遣える子だとは思っていなかった。



「今度潜ってみる?」


「潜れるの?」



二人は私が自ら命を手放したことについて一切触れないでくれた。

 死んだ理由はわかっていても、死んだ時のことは思い出せない。このまま思い出さないまま、その理由すら忘れてしまえたらいいのに。



「私、潜ってみたい」



機会に恵まれたら潜ってみようかという話になり、いつか来るかもしれないその日に思いを馳せながら釣りを続ける。



 再び穏やかな時間が訪れた。

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