山ノ大神年 色取月二日 第三話
記憶は声をかける前で終わりだったようで、それから徐々に見える景色は元に戻っていった。
今はもう、私の目にはカンパチだけが映っている。
「見えるのは、持ち主の一生の記憶ってわけじゃないんだね」
「そういう時もあるけれど、ほとんどが断片的な記憶として何匹かの魚に姿を変えていることが多いね」
ある一人の一生分の記憶が一匹の魚になっているわけではなくて、全部で何匹かの魚に姿を変えて泳いでいるということか。
「そっか。それで記憶を見終わった
こっち、と惺大が手招きするので、胴の間の釣り座の方へ移動する。
船尾寄りの壁にはよく見ると、爪を引っかけると開く小さな扉があった。そこを開くと、大水槽の中へ魚を入れられる仕組みになっていた。
彼が実際に開けて見せてくれたが、水槽内の海水や
「ここから入れるんだ。もし指に痺れが走った
彼の指さした壁際には、小さな虫取り網のような短い柄の先に網のついた道具が立てかけられていた。カンパチなら一匹で網がいっぱいになってしまいそうな頼りない大きさだが、
「こういう作業の合間にも記憶が私たちに影響を与えてるから、それを洗って落とすためにシャワーや睡眠が不可欠なんだね」
「だな」
水槽の中に溜められた海水に命拾いしたといったように、カンパチは水中に入るなり尾ひれを忙しなく動かして新しい住処の居心地を確かめるように泳ぎ始めた。
ふと、いつかは私の記憶も隠世の海を泳ぐことになるのか、と思い至る。
来世へ旅立つ際、前世の記憶は漱がれる。決まりごとのようだからどうしようもないけど、自分が死んだ後も自分の記憶が隠世で生き続けることをどう思うのだろう。
「……どうも思えないのか、もう次の人生を歩み始めてるんだから」
「何のこと?」
小さな扉をカチンと音がするまでしっかりと閉めると、惺大が肩越しに振り返った。
「こんな風に他人に自分の記憶を見られて、記憶の持ち主は嫌じゃないかなって」
私だったら嫌だ。だけど来世へ行ってしまえば、私は私の意識を手放すことになるのだから、何も感じなくなる。それでもなんだか嫌だった。
そう言えば、私は身の回りの整理をしてからちゃんと死んだのだろうか。未だに死んだ時のことをはっきりと思い出せないけれど、私のことだ。もしかすると持ち物どころか、部屋さえ引き払っている可能性もある。
「あんまりいい気持ちはしないよな」
けど、と彼は船首へと戻りながら肩越しに私と目を合わせながら続ける。
「どんなに身の回りの整理をしてから死んでも、記憶だけは片づけられないってことなんだろうな…」
視線を逸らす瞬間、彼の瞳には悲しみの色が滲んでいるように見えた。
意外な返答に、咄嗟に言葉が見つからなかった。
もっと「でもどうせ見られても、その頃俺は来世にいてそんなこと知る由もないわけだし」とか、言われると思ってた。
何か言わなければと言葉を探す間にも船首に辿り着いて、その時にはもう惺大はいつも通りの惺大だった。
「漓宛ちゃん、目標立てようぜ」
唐突な提案に「…えっ?」と思わず問い返してしまう。
「だから、目標」
すると空振りしてしまった糸を巻いていた縁も「それはいいね」と惺大に賛同した。
「同じことの繰り返しの毎日だからね。目標があった方が張り合いが出るんじゃないかな」
「縁さんの目標は?」
「僕?、僕は沢山の記憶見て学びを深めたいかな」
あまり要領を得ないけど、自分の見たことのない記憶から新たな知識を得たい、ということだろうか。
縁が博識そうに見えるのは、ずっと隠世の海で他人の記憶を見て学んできた時間が長いからかもしれない。
「俺はマグロが釣りたい。生きてる時に釣れなかったからさ」
単純明快、でもそう簡単には達成出来なさそうな、設定するには丁度いい目標だと思う。マグロじゃなくても、私にも大きな魚を釣ってみたいという願望はある。
二人が私のことを同時に見る。突然話を振られてもと一瞬焦ったが、不思議とやりたいことが思い浮かんだ。
「私は色んな魚を見てみたい」
生前は食べること以外では全く魚に興味がなかったので、この機会に色んな種類の魚を釣り上げてみたいと思った。二人と一緒に。
最後の部分は、気恥ずかしくて口にしなかったけど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます