山ノ大神年 色取月二日 第二話

「縁ってあんまり魚に詳しくないよね?」



意外だったので尋ねてみると、彼は苦笑しながら惺大の方を見た。



「惺大と出会うまでは魚の名前はさっぱりだったんだ」


「え、そうなの?」


「うん。これまで沢山の亡者ひとと海釣りをしたけれど、みんな特段魚に詳しいってわけじゃなかったからね。僕も縁がなくて魚についてはからきしで」



惺大は生前、漁業を生業としている祖父や父親にしょっちゅう船に乗せてもらっていたらしく、魚にはとても詳しかった。



「ところでこのカンパチだけど、大水槽へ入れる?」



その場にしゃがみ込んでカンパチを見下ろしていた惺大は、私たちを見上げて首を傾げた。

 カンパチは既に諦観の滲んだ右目で空をじっと見つめ、静かに呼吸しようとしながら横たわっていた。



「まだ入れないでくれるかな。漓宛に記憶の見方と記憶を見ない方法を教えたいんだ」



惺大は了解、と短く答えると、カンパチの傍の場所を私と縁に譲ってくれた。



「これは他人の記憶だ」



そう口にすると、縁はカンパチにゆっくりと触れる。



「絶対に目を閉じてはだめだよ。記憶は元々人間の中に存在していたもの。それ故に、人間の身体に極めて馴染みやすいんだ。目を開けて、自分の意識を今に集中させながら、〝これは他人の記憶だ〟と口にしてから触れるんだ。自分の中にこの他人の記憶が入り込んでしまわないように」



教えられた通り、「これは他人の記憶だ」と口にしてから、縁を真似てゆっくりと目下に横たわるカンパチに触れる。



「急激に触ると殴られたみたいに頭痛がして、本当にやべえってなるんだよ」



一度失敗したことのある者の言い方だ。惺大曰く、急にきおくに触れると他人の記憶が一気に濁流のように流れ込んでくると言う。



「笑いごとじゃないよ惺大。あの時君が目を開けていたから大事にならずに済んだけれど」



一度 きおくから手を放すように促されたので、それに従う。



「もし目を瞑っていたらどうなってたの?」


「他人の記憶だったものが、惺大の記憶に入り混じってしまっていただろうね」



恐ろしい話だ。

 常々海は未知な要素が多くて、怖いと思っていた。人間なんかよりもずっと大きな魚だっているし、底知れない雰囲気だってある。

 そんなことに思いを馳せて、思わず武者震いしてしまう。

 隠世の海で釣れるきおくはどの個体も私たちの記憶に干渉してくるという。

 改めて海は恐ろしいと思ったけど、その反面、海での船上暮らしは思いの他楽しい。恐ろしいのは変わらないはずなのに、可笑しな話だ。



「はい、もう一度カンパチに触れてみて。ゆっくりだよ。少しずつ靄のかかった景色が流れてくるのはわかるかい?」



頷くと、縁はそのまま続けた。



「この後、その景色は鮮明に見え始める。だけど、それが君にとって不快に感じるものの場合、それを知らせるように鱗から電流のようなものが指先に伝わってくる感覚があるはずだよ。…指先に痺れはない?」


「大丈夫」


「それなら君が見ても大丈夫な記憶ってこと。それでも見たくなければきおくから手を放せばいい。痺れた時はすぐにきおくから手を放すんだよ」



 見えたのは、ありふれた夕日の差す歩道。左手には道路とガードレール、右手には目線の高さよりも背が伸びた名も知らぬ長い青々とした草の群衆と、風になびすすきたち。あちらこちらで飛び交う赤トンボの動向を目で追いながら下校していると、視線の先に好きな子が歩いていて声をかけようと駆け出す…そんな記憶だった。

 いつかの誰かの記憶。

 自分の記憶ではないのに、その記憶を見ていると自分のことのように胸が高鳴った。

 ここまで他人の記憶に臨場感があるなら、目を閉じてしまえば自分の記憶と入り混じるというのは納得だ。

 私は今確かに目下のカンパチとそれに触れる自分の手を見下ろしているはずなのに、頭に別の景色が流れ込んでくる。瞳に今を映しながら過去を見ているようなこの感覚は、昔見た光景や思い出を思い出すのと似ている気がした。

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