山ノ大神年 色取月一日 第三話

「…結局、私は東京で適当に就職したんだ。一人暮らしするのに差支えがなくて、普段私がどうしてるかなんて全く関心がないくせに体裁だけは気にする親も満足する会社に」



鼻腔を熱い涙の香りが抜ける。

 泣かないように大きく深呼吸して、目に溜まった涙が流れないように天井を見上げる。



「澄んだ空気に、それを生む緑。絵画かってくらい綺麗に連なる山々に、田畑の上を音もなく飛ぶ紋白蝶モンシロチョウ…あそこで過ごした日々が一番幸せだったな」



声が掠れた。あと一言、何かしゃべろうとしたら泣いてしまう。



「長野か。行ったことはないけれど、話で聞いたことはあるよ。君にとってそこで過ごした時間はかけがえのないものだったんだね」



頷くと、その僅かな振動で涙が零れ落ちてしまった。



「それからはずっと一人暮らしだったんだけど、最後に…死ぬ少し前ってことね、一通の手紙が届いたのとほぼ同じタイミングで電話がかかってきたんだ。手紙は兄さんからの結婚式の招待状で、電話は父さんから」





兄さんはどうやら大学で知り合った女性ひとと結婚するらしかった。

 正直、驚いた。両親はかなり兄さんに対して執着していた。血の繋がった私ですら追い払うような人たちだ、他人よその女なんかに取られてしまっては堪らないと結婚などさせなさそうなイメージを勝手に抱いていた。

 でも父さんからの電話を取って理解した。彼らは兄さん幸せになってもらいたいのだと。



『もしもし、父さん?』


『ポストの中、見たか』


『うん、結婚式の招待状でしょ。兄さん、結婚するんだね』


『はぁ……。兄さんは優しいからお前に招待状を送っているだろうとは思ったが、やっぱりか。絶対に来るな』


『……わかった。ねえ、母さんに』



母さんに代わって、と言い終える前に電話を乱雑に切られてしまった。

 無機質なツーという音が虚しく響く。





「期待した私が馬鹿だったよ。兄さんが結婚して両親と世帯が別になれば、もしかしたら兄さんに向けられてた愛情が少しでも私に向くようになるんじゃないかって」



でも、違った。兄さんに向けられた愛情は、いつまでも兄さんのものだった。



「だからね、私兄さんの結婚式の前日に



縁の顔をそっと盗み見ると、不思議そうな表情をしていた。



「少しでも両親の気を引きたかったのかもしれない。憎しみでもいいから」



 そう、私は自殺した。…でもどうやって?。

 思い出せないけれど、思い出さない方が幸せな死に方をしたのかもしれない。

 大きく深呼吸して、頬を伝った涙を両手で拭って笑顔を作ってみせる。



「すっきりした。ありがとう、聞いてくれて」


「君が楽になるならいくらでも。…このまま眠るかい?。それとも少しサンルームでおしゃべりでもするかい?」



 海と空、その境目もわからなくなるほど一面が濃い濡烏ぬれがらす色の世界。

 私の答えがわかっているかのように、縁は消えかかっていたランタンの火を再び息吹かせた。温もりのあるその光は、今まで見たどんな夜に灯る光よりも心に沁みた。

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