山ノ大神年 桂月十四日 第四話

亡者が力づくで現世へ戻ろうとしたと判断したのか、押し戻された時川から律されるように波模様が赤い痕になって足にくっきりと残っていた。



「そのうち引くよ」


「縁さんも三途の川に入ったことあるの?」


「誇れる話ではないけれど、まあ何度かね。痛むけれど、数日でその不穏な模様ごと痛みは消えるから」



私たちが痛みに顔をしかめていた頃、紫期はずっと震えていた。

 まだたったの十六歳。惺大と二歳しか変わらないのだ。

 どうして死ななければならなかったのか。なぜ弟は助かり自分は助からなかったのかという気持ちと、弟だけでも助かってよかったという気持ちで矛盾する心。

 流れる涙にはきっと色々な感情が入り混じっていることだろう。



「叶芽君、きっと今頃お父さんと会えてるよ」



紫期はうん、うん、と自分に言い聞かせるように何度も頷いてるように見えた。



「あ、あの…私の代わりに叶芽を叱咤してくれて、ありがとうございました」



不意に礼を言われて、狼狽える。



「ああ…きつく言い過ぎたからトラウマになってるかも、ごめん」


「いえ、そんなことは。大丈夫です、もっと家できつく叱る時もあったので」



彼女は叶芽を叱っていたけど、私は違う。私はただ私情の混ざった怒声を浴びせてしまっただけだ。



「でもどうしよう、また会えるって約束しちゃたけど…」



本当にまた会えるのか、これから死んでしまった自分はどうなるのか、不安に満ちた目が忙しなく泳いでいる。

 そんな彼女に、惺大が安心させるように笑いかけた。



「坂を登った先に列があってさ。来世じゃなくて牧場へ行くことを希望すれば、親父さんや叶芽がここへ来る時まで待つことが出来るんだ。大丈夫、また会えるから安心しな」



突然そんなことを言われて戸惑う彼女は、真偽を確かめるように縁と私を見上げた。



「気休めじゃなく、本当の話だよ。彼のおじい様もおばあ様も牧場にいて、家族を待っているんだ」



それとも、と縁は続けた。



「僕たちと隠世の海釣りをしながら待つかい?」



紫期は丁寧に頭を下げてお礼を言った後、彼の申し出を断った。

 先に家族と別れることになってしまった少女を慰めるように、どこからともなく飛んで来た大紫オオムラサキが彼女の傍で音もなく羽ばたく。









 途中まで彼女と一緒に元来た道を戻り、列の最後尾で別れた。

 私たちは予定通り浜辺の傍で網を張った。

 すねの高さのところまで海に入って〝生前の未練〟を満遍なく撒いていると、先程の姉弟の話題になった。



「さっきの姉弟はどうして隠世に来ちゃったと思う?」



もし今が師走なら、交通事故で亡くなったのではないかと言ったかもしれない。年末は忙しく、その分人の気持ちも急くものだ。いつもは温厚なドライバーですら、いつもより車の速度を上げているかもしれない。

 だけど、今は夏真っただ中の八月。猛暑が過ぎるという点では…



「熱中症とか?」


「嗚呼…ありえるな。夏は祭りごとが多いし」


「縁はどう思う?」



惺大の答えを軽くいなしたのは、縁の考えが聞きたかったからだ。



「うん…僕は二人が子どもだったからだと思う」


「「えっ?」」


不覚にも、惺大と同じタイミングで疑問の声を上げてしまった。



「今の時期は現世と隠世が近づくと話したでしょう?。その影響を子どもはより受けやすいんだ。実際に桂月けいげつは、列に子どもが並んでいるのをよく見かけるしね」



隠世での暮らしが長い人の考えは、やっぱり少し私たちとは発想が異なっていた。



 列から外れていた亡者数人にも作業を手伝ってもらい、なんとか沖への記憶の大漁放出を防いだ。







 ふた仕事終えたくらいの疲労感と、まだ足に残る水の感覚。凝り固まった肩を回して解しながら船へと戻る。

 私がL字ソファに倒れ込むと、「ああ」と獣じみた呻き声を出しながら惺大も床に転がった。



「なあ漓宛ちゃん」



叶芽君に私情を交えて怒鳴りつけてしまったことを咎めらえるのかと身構えたけれど、そうではなかった。



「紫期と叶芽の父さんにとってはさ、現世では叶芽が助かって紫期が死んだっていう状況が起こってるわけだろ?。それもすげえ辛いと思う。だけど、二人一緒に隠世に足を踏み入れたのに、片方だけが現世に戻れて、もう片方が隠世に取り残されるっていうのも同じくらいきついよな」


「…そうだね」



三途の川があんなにも残酷だとは思っていなかった。



「きついけど、死んだことを悲しんでくれたり、助かったことを泣きながら抱きしめて喜んでくれたりする人がいるって幸せなことだよ」



口を滑らせしまったと思った。

 どういうことかと聞かれるのを回避するにはどうすべきかという思考に切り替えるが、意外にも惺大はそれ以上何かを聞こうとはしてこなかった。

 ただ、「それにしても疲れたし、足痛えし」とやんわり会話を終えただけだった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る