山ノ大神年 桂月十四日 第三話
紫期は聡い子のようだ。今自分たち
震える声を律するように大きく深呼吸すると、彼女は大きな声で弟へ呼びかけた。
「叶芽、引き返しなさい。来た道を戻る分には、足が動くはずだよ。川に落ちないように気をつけて」
叶芽は恐る恐る足を一つ手前の岩へと伸ばす。足が動き、父親の声に呼ばれる方へ――現世へ足場を確かめるように数歩引き返す。
「本当だ。じゃあ戻ろうよ紫期ねえちゃん」
どれほどの悲しみが彼女を襲い、どれほどの寂しさがその華奢な肩にのしかかっていることだろう。
姉として、出来るだけ平静を装いながら彼女は弟に届くよう再び声を張る。
「私は戻れないの。お父さんにごめんなさいって代わりに伝えてくれる?」
すると叶芽はぴたりと足を止めた。
姉が一緒に戻れないということがどういうことなのかは、縁の言葉が聞こえていない彼にはわからず、戸惑っていることだろう。
それでも何かを察したらしい。再びぽろぽろと大粒の涙を流し、泣きじゃくった。
「嫌だよ、紫期ねえちゃんと一緒じゃないなんて嫌だッ。僕もそっちに行く」
先程いた岩よりも更に
叱られて、それでも「紫期ねえちゃん」とその場にしゃがみ込んで泣き続ける叶芽。
「そのうち父君の声は叶芽君の耳にも届かなくなる。そうしたら彼へ開かれた現世へ戻る道は閉ざされてしまう」
「来ないで叶芽ッ、お願い…」
それを聞いた紫期は真っ青になり、半ば消え入りそうな声で祈りのような言葉をもらした。
紫期が泣き崩れるのを見ていたら、足が勝手に川の中へと向かっていた。岸へ戻らせようとする引力に抗いながらざばざばと水をかき分け、叶芽の座り込む岩まで進んで行く。
「泣くなッ」
見知らぬ
「よく聞いて叶芽君。あなたにはあなたを思って悲しんでくれるお父さんも、あなたのために心を鬼にして叱ってくれるお姉さんもいるの。そういうの、当たり前じゃないの。目の前から消えてほしいと思われているのを肌で感じながら生きてる子どもだっているの」
背後から駆けつけて来る惺大の更に後方で、慌てた様子の縁がこちらを見ている。
彼の表情から察しなくても、死んだ人間が三途の川に入るのはまずいだろうということくらいは理解しているつもりだ。
でも今はそんな隠世の摂理なんかに構っていられる状況じゃない。
「お姉さんだって、本当は戻りたいんだよ。でも戻れないの。このままだとあなたも戻れなくなる。それはもっと嫌だから、お姉さんあんな風に泣いてるんだよ」
隠世の岸辺を見る叶芽。その視線の先で、紫期が「叶芽だけでもお父さんのところに戻ってあげて」と言って、涙を浮かべながらも必死に微笑んで見せている。
弟が現世へ戻りやすいよう、自分は大丈夫だと示すように。
「さよなら、なの?」
叶芽が再び泣き出しそうになるのを、惺大が頭を撫でて宥める。
「違うよ。叶芽がいつかじいちゃんになってここにまた来る時までの別れだ。また会える」
「本当?」
問いかけられた紫期は大きく頷く。
叶芽はしっかりと自分の意志で立ち上がり、私と惺大は突然波打った川に足を攫われ元居た岸辺へと押し流された。
姉に言われた通り、元来た岩を戻って行く叶芽。
「紫期ねえちゃん」
最後の岩の上で立ち止まった叶芽は、振り返り
「またね」
紫期が手を振るのを見届けると、彼は靄に呑まれて見えなくなった。
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