幻想に踊る

あだちよしなが

朝、立ち上がるまで

 水着の女性が、川に入って水浴びをしている。年は十三、四歳くらいだろうか。その川の流れは浅く、そして早い。最初、その女性は浅い流れの上に立って、川の外に向かって水をかける素振りを見せたり、かと思えば、急にしゃがんで尻を流れにつけたりしていた。

 青空が広がっており、日は燦々と輝っている。とても暑い、と自覚するまでには時間がかかった。あまりにもその風景が涼しげなあまり、自分もそれに釘付けになってしまったからである。

 やがてその女性が、遊び疲れたのか、まずは浅瀬に寝転んで、それからごろごろと身体を転がした。しばらくすると、彼女は川から上がってきて、私の方へ向かってきた。


 夢はそこで途切れた。私はいつからか、ある和室の厚い布団で眠っていたようだ。曇っているのだろうか、部屋は薄暗く、布団の外は寒いようだ。

 自分はなぜそこにいるのか、一瞬戸惑った。今自分は、保養で温泉旅館にいるのだが、もう数日の間旅館の外にも出なかった。

 自分がつい先ほどまで見ていた夢は、確かに不可思議なものであった。もしかしたら、それは自分が若い頃に夢見ていた光景かもしれない。

 人というのは、なぜ時折昔の空想を夢に見るのだろうか。今の自分は人生において行き詰まり、鬱屈した状態にあるからだろうか。


 布団で横になっていると、外が俄かに明るくなった。晩秋の候、すでに布団の外に出ようものならドテラが欲しい時分であるが、それでも伸びっぱなしの毛脛が少々鬱陶しくも感じるのである。脛毛が伸びっぱなしであるのをまじまじと見てあれこれと物思いに耽るのである。


 自分は男であり、それゆえに、女というものに対して幻想、憧憬を抱いてきた人生であった。それは小学生の頃に始まり、大学を出る頃まで続いた。それも今や、彼女の一人もできないまま人生そのものに見切りをつけねばならぬのだろう。せめてその一人が欲しかった、と思いつつ、現実にそれは飲まれてしまったものである。

さすれば、先述のような夢を見るのは、ある意味では「自然」であると言えるのだろう。ただ一つ奇妙なことがあるとすれば、それはここ数日同じような夢を繰り返し見ているということである。厳密には、その状況は毎度のごとく変わっているのだが。ある日は景気の良く、若者の多かった時代に建てられたとおぼしき屋内プールで。ある日は秘境の混浴温泉で、それぞれ先述の夢と同じ状況の夢を見ていた。

 はてさて、朝餉の時間までには起きねば、と思いたち、のっそりと布団から這い出たところで、扉を叩く音がする。扉を開けると、配膳係であった。軽い会釈をすると、朝食が置かれて行った。


 朝餉を済ませた私は、部屋の隅のカレンダーに目をやった。今日は十一月の十五日である。私がこの旅館に来て三日たつが、その間の心持ちは今までになく安らかであった。これまでの生活は、常に何かに追われ、それらは必ず報われない努力、あるいは徒労であったのだから、それらから解放されたいまが、自分にとって幸福のひとときであることに間違いはない。こう感じて、自分は初めて幸福とはなんぞやを考えるに至った。世間一般の人間にとっては、目先の生活、目先の承認欲求を第一義とし、それのために何も考えず一意専心の生活を送り、なおかつそれを幸福としているようである。大半の人間は、生活を送る中で勝負というものに熱中し、それを楽しめない人間へ一切の考慮をなさなかったりした。あるいは、集団で一斉に同じ物事に熱中し、一斉に次の流行へ飛び移ることを繰り返したりもした。それは私が幼少の頃から変わらず繰り返されており、それは彼らの中で何の違和感もなく受け容れられていたようである。

 それに引き換え、自分という人間はあまりにも変わりすぎている。先述のサイクルが、自分にとってはどうも好ましいものであると感じられなかったのである。その証拠に、自分は何年もの間同じ趣味に没頭した。それは周囲の人々が一つのものに一斉に飛びついてから飽きて離れるまでの期間をいくつも繰り返すほどの長さであった。 詰まるところ、自分という人間は周囲のいわゆる「友達」に合わせることよりも「自分の趣味世界」に没頭することの方が大事な、「変わった」人間なのである。

 思ってみれば、幼稚園の頃から自分は周囲から孤立することこそなけれど、ある程度「浮いた」人間であることは確かであった。この「浮いた」自分というものを自覚したのは自分の齢が三、四くらいの頃であるから、自然に考えれば自分が元から変人であったことを認めるべきである、という結論に至った。


 人間というのは、人の間、と書くもので、人に求められているのは、ある意味においては周囲への付和雷同である。だが、自分にとってそれをするには受け入れ難いものも多かっただけに、それらを含めて「溶け込める」人間というものが、非常に羨ましくもあった。なぜこれを「羨ましい」と感じるか?に関しても考えたが、結局のところ自分にも、他人のように心から語りあう存在を欲する心理があったのだ。


 さて、ここまで色々と思考を巡らせた結果、私が何を求めているのかはある程度はっきりしている。私にとって欲しいものというのは、自分が積み上げてきた「嗜好」に適う人間である。さらに言えば、同様の「嗜好」を持つ人で集まり、ひっそりと暮らすことなのかもしれない。

 自分にとって「温泉地」というのは非常に気に入っている。同じ療養をするにせよ、金が些かかかりすぎる、という点を除けば、不特定多数の人間、つまりは先述の「周囲」にあたる人々にあれこれと遠慮する必要もなく、心ゆくまで羽根を伸ばすことができるのだから。

 なぜ自分は冒頭のような夢をしばしば見るのか?とふと考えてみた。ひょっとせずとも、それがおおよその事象に、一時的にせよ満足した自分にとって不足している最後の一ピースなのかもしれない。この旅館には別に看板娘がいるわけでもなく、かといって外部との人間関係が降ってくるわけでもないのだ。男性には女性が必要なのである、といっては、やたらと多様性ばかりの喧伝される今の世においては叩かれる可能性もあるが、確かに「自分にとっては」そうなのである。幸い、自分は異性との関係などにおいて昔からやましい出来事があったわけでもない。これからはそれを探しに行った方が良いのかもしれぬ。私は少し考え事をした後、徐に立ち上がり、一風呂浴びてでも来ようかと思い立った。ここまで辿った私の行動に、べつだん意味はなく、持たせる必要もないのだから。

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幻想に踊る あだちよしなが @reman_y

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