第1章 代理と何でも屋【1】

 かくん、と頬が杖からずれるので覚醒する。冷え切った室内は眠くなってしょうがない。こんなにも居心地が良いのだから仕方がない。

「お目覚めですか」

 赤色の向こうで執事が笑う。この為体ていたらくを嘲っているのだ。なんて不届きな執事だろう。

「ああ、最悪な気分だよ」

 金縛りのままに足を伸ばせば、忌々しい蜘蛛が辺りを這う。苛立ちのまま舌を打つと、無慈悲な侍女が踏み潰して醜い声を上げた。

 ――ああ、塵になってしまった。まさしくお似合いの姿だ。

 与えられるはずの幸福は遠く、贖罪の時を目前に、この鈍い頭は解放の時間を待っている。

「これであいつは逃げられません」

 侍女が三日月の口で微笑わらった。それにつられた冷酷な騎士の莞爾かんじが、不気味なほどに窓ガラスを揺らす。

「そうだろうか。逃げられないと言えば逃げられない。だが、逃げられると言えば逃げられる」

「そうね。けれど、あの子に任せておけば大丈夫」

 憎悪と愛情の狭間で揺れる届かないはずの星屑が、宙で瞬いた瞬間、虚しく堕ちて逝った。

 あの子に任せておけば大丈夫。なんの取り柄もない確信にも似た懇願が、頭の中で鬱陶しく渦巻いて、灰色に切り取られた世界が、いまかいまかと嘲笑う。





 ……――





「――……シリル様。……シリル様」

 肩を揺さぶられて目を覚ますと、執事のトラインが跪いて覗き込んでいた。暖かいリビングの一角。ひとり掛けソファに頬杖をついて、いつの間にか居眠りしていたようだ。それはいつものことであり、トラインが咎めるようなことはない。

「お客様がお見えです」

 トラインが示した先を見ると、ぼんやりとした視界の端に、男性と少女の足元が映る。この屋敷にああいった靴を履く者はいない。確かに客のようだとひとつ頷いた。

「……僕の執務室にお通ししてください。いつも通り……あの子に任せて……」

「かしこまりました」

 辞儀をして客のもとへ向かうトラインを見送り、頬を杖に戻す。そうして、視界が灰色に変わっていくのを静かに待った。

 コンコンコン、と軽快なノックに顔を上げる。トラインが客を案内して来たようだ。どうぞ、と声を掛けソファから立ち上がると、背の高い男性とポニーテールの少女がシリルの執務室に入って来た。微笑んで出迎えた彼に、少女がきょとんと目を丸くする。

「どうぞ、お掛けください」

 向かいのソファにふたりを促す。男性は見上げなければならないほど長身だが、少女は自分より少し高い程度で目を合わせるのは容易だ。ふたりは不思議そうな、はたまた怪訝な表情でソファに腰を下ろす。彼も元の場所に戻り、足を揺らしながら問いかけた。

「まずは、お名前を教えていただけますか?」

 ふたりは視線を交えたあと、先に口を開いたのは男性だった。

「……ロスだ」

「あたしはメリフ」

「……ロス……メリフ……」

 確かめるように呟く。正常に届いているといいのだが。

 トラインが紅茶を持って来てふたりの前に置くので、一旦、話すのをやめる。トラインは辞儀をして、ソファの後ろに静かに控えた。ロスとメリフはまだ警戒している様子で、ティーカップには手を付けない。それに構う必要はなく、また問いかけた。

「……表向きは何でも屋、ということでよろしいですか?」

「ああ、そうだ」

「承知しました」

 貼り付けた微笑みで応える。いつでも、どんなときでも微笑みを絶やさないのが貴族の務めである。大人であろうが子どもであろうが、それは変わらない。

「で、お前は?」

 ロスの問いに、こちらの情報を把握した上でこの屋敷に来たのではないかと逡巡してしまったが、それもそうか、と考え直す。

「シリル・ラト代理のニコル・フォン・ターナーです」

「代理?」

 ロスが訝しげな声で言う。それも当然のことだと思いつつ、ニコルはひとつ頷いた。

「シリル・ラトは、先ほどリビングで居眠りしていた者です」

 トラインは初めに、リビングのソファで居眠りをするシリルのもとにふたりを案内した。執務室に、とのシリルの指示を受けたトラインに連れられ、そこでシリルの代わりにニコルが出迎えれば、ふたりにとっては不可解なことだろう。

「あれでもラト伯爵家の当主を務めています。詳細はお話しできませんが、シリルは意識が混濁してはっきりしないときがあります。そういったときに出て来るのが僕です」

「シリルの精神体ということ?」

 不思議そうに問いかけるメリフに、うーん、とニコルは首を捻る。

「物理的な存在ではないので、そう言えるのかもしれませんね。なので、話す以外のことはできません。映像と音声はシリルに届きますので、次にシリルと会ったときはそのままお話しできるはずです」

「ふうん……」メリフは首を傾げる。「シリルって若く見えるけど、いくつなの?」

「それは依頼には関係ないですよね」

 爽やかに微笑んで見せたニコルに、メリフは少しムッとしたように見えたが、それ以上は追及して来なかった。そもそも、依頼主のことはあらかじめある程度は調べているはずである。

「……依頼は」

 ロスに促され、ニコルは左手を宙に向ける。人差し指と中指のあいだに現れた一葉の写真を、すっと机の上に出して見せた。

「単刀直入に言います。彼の調査を」

「調査?」と、メリフ。「この人が何者か調べればいいってこと?」

「はい。僕たちは彼が何者かわからないんです。そのための調査をお願いします」

 メリフは写真を手に取り、つくづくと眺める。写真の人物に、ふたりは心当たりがないようだ。もう少し情報を提供する必要があるだろう。

「彼の名はシドニー・グレンジャー。次のオーランド家の夜会に参加することになっています」

「ちょっと待って!」

 顔を上げたメリフが声を張るので、ニコルは首を傾げて促した。

「ここはグレンジャー男爵邸の別館でしょ? それなのに調査が必要なの?」

 メリフの疑問はもっともだ。ふたりが通されたのは、グレンジャー男爵家の邸宅の別館。その中の一角にあるシリルの執務室だ。ふたりの怪訝の色が深まったのも頷ける。それでも、ニコルの答えは変わらない。

「はい。調査をお願いします」

 ロスとメリフは顔を見合わせた。ニコルは微笑みを崩さず、絶やさず、ふたりが頷くのを待っている。次に口を開いたのはロスだった。

「シリル・ラトとの関係性は」

「それも調査してください。僕たちには、彼が何者かわからないんです」

 わからないばかりで申し訳ない、とニコルは考えてみたが、実際にそうなのだから仕方がない。わからないことは、どれだけ考えてもわからないのだ。

「グレンジャー男爵邸の別館で暮らしているのにわからないの?」

「はい。シリルは現在、保護という名目のもと幽閉されています」

「どうして?」

「それはお話しできません」

 あくまで笑みを崩さないニコルを、ロスとメリフは探るように見つめている。微笑みの真意を見抜かれたことはいままでにないが、ふたりの気配は鋭い。何かニコルの意図しないことに気付くときがあるかもしれない。

「グレンジャー男爵についても調査をお願いします。あの人は容疑者である可能性があります」

「なんの容疑?」

「それも調査をお願いします」

 調査に調査、さらに調査。普通の探偵だったら投げ出していたかもしれない。彼らがそうすることはないと確信した上で依頼を出している。どれほど期待できるかは判然としないが、裏切るようなことはないのではないかとニコルは考えていた。

「あたしたちが依頼を受けるには条件があるわ」

 メリフが人差し指を立て、語気を強める。ニコルは首を傾げて先を促した。

「あなたたちがあたしたちを裏切らないっていう信用よ。シリルがあたしたちを信用すること。シリルがあたしたちを売らないと確信すること。シリルに疑いの目がかからないようにするのと同時に、あたしたちにも立場ってものがあるわ。そのためには、少しでも多くの情報が必要よ」

 早口に捲し立てられ、耳が置いていかれそうになるのを必死で堪える。音声が届くまで、多少なりとも時差がある。返答を待っているあいだに矢継ぎ早に言葉を投げられると、少々混乱が生じてしまう。

「わかったかしら?」

 溜め息交じりに言うメリフに、ニコルはまた微笑んで見せた。

「なるほど。それは失礼しました」

 メリフはまたひとつ息をつき、ソファに腰を戻す。

「あなたって、なに考えてるかよくわかんないわね」

「何も考えていません」

「それは嘘」

 あながち嘘ではないのだが、とニコルは返答を待ちつつ微笑む。例え頭が混乱しようとも、微笑みを絶やしてはならない。貴族は感情を表に出してはならない。それが命取りになることもある。ニコルはそれをよく知っていた。



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