第25話 橙に染まった涙

 屋敷の廊下は、夕陽に染まっていた。

 橙色の光が長く伸び、壁に揺れる影がゆらゆらと形を変える。


 憂は額の包帯にそっと手を当てながら歩いていた。

 まだ少し痛む。だが、それよりも胸の奥のざらつきが気になっていた。


 ――静かすぎる。


 廊下の突き当たり、トイレの扉に手をかけたとき、

 遠くから微かな声が聞こえた。


 「……またやったの? 本当に情けないわね」


 憂は反射的に動きを止めた。

 その声を知っている。石田――あの冷たい執事の声。


 音も立てずに扉の隙間から覗くと、

 廊下の奥で、葉月が小さく震えて立っていた。


 「ご、ごめんなさい……私……」

 涙に濡れた声。

 その頬を、石田の影が覆う。


 夕日の光が二人の間に割り込み、

 葉月の涙が橙に輝いた。


 ――何を、しているの。

 憂の呼吸が浅くなる。心臓がどくどくと鳴り、

 包帯の下で傷が再び熱を帯びた。


 「やめて……葉月姉に、そんな顔させないで……」

 声にならない声が喉の奥で震える。


 体が勝手に動いた。

 扉をそっと閉め、背を向ける。


 足音を殺そうとしたが、床板が軋むたびに胸が痛んだ。

 視界が滲む。息が乱れる。

 橙の光が、まるで追いかけてくるようだった。


 ――見なければよかった。

 ――知らなければ、こんなに苦しくなかったのに。


 憂は廊下を走った。

 どこへ向かうのかも分からず、

 ただ、あの場所から遠ざかるように。


 気づけば、夕陽の届かない廊下の端で立ち尽くしていた。

 影の中で、憂の肩が小さく震える。


 涙は、こぼれていた。

 包帯の白が、ゆっくりと濡れていった。

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