彼岸の彼女。約束の緋の橋。

わだつみ

彼岸の彼女。約束の緋の橋。

 今日もまた、旅館の部屋の窓は、朝から雨に濡れていた。

 この旅館に滞在を始めた日から毎日、小雨続きだった。

 部屋の窓から見えるのは、鈍色の空と霧雨に霞む小さな漁港の風景だった。漁港には漁船が何隻か係留されているだけで、歩く人すら見えない。

 晩秋の十一月、この漁港の町の旅館に私は、大学の講義も数日欠席して滞在していた。


 私にはこの地に来なければならない理由があった。

 私は少し表紙が色褪せたカンバスノートを鞄の中から取り出す。

 このノートと、今は亡き「彼女」との最後の約束こそが、この地に私の足を運ばせたのだ。


 『私はいなくなっても、貴女にはまた、この海に来てほしいな…。私は、あの海の、緋の橋の向こうで貴女を待ってるから』 

 

 その約束を叶えねばならないのに、雨に妨げられ、私はこの部屋から動けないままだ。

 霧雨が降る空をいくら見つめても、未だ雨は止みそうにない。

 私は窓辺でノートの頁を捲りながら、晴れ間を待ち続けた。


 そのノートには、彼女が遺した自然の光景のスケッチが並んでいる。

 高校時代のあの頃-、私が彼女と見た景色がそこには描かれている。

 観光旅館としては質素な部屋の中で、淡々と頁を捲る音だけが響く。

 そして私の手は、彼女の遺した最期のスケッチの頁を開く前に、いつものように止まる。

 最期の頁を見たら、悲しみを抑えきれなくなると分かっているから、どうしてもその頁を私は開けない。

 

 ‐彼女の景色の描き方は、まさに美の求道者きゅうどうしゃと呼ぶに相応しいものだった。

 彼女は、自分にしか分からない美の瞬間を見逃さない。

 目の前に差し込む日の角度。

 或いは、空を覆う雲の数。

 或いは、花を揺らす風の強さ。

 -そうしたものを彼女はその瞳で、描き始めるまで精緻に観察し、全てが整ったと思う瞬間まで筆を取らなかった。

 『この景色を貴女と共に見た時間が、私の中で一番の美として、永遠の記憶になるスケッチでなければ…描く意味がなくなってしまうから』

 彼女は口癖のようにそう口にしていた。


 彼女から私へ、愛の告白の言葉が贈られた日の事は忘れ得ないものだった。あの告白を一文字一句忘れず、私は今も思い出す事が出来る。

 

 『貴女が傍にいてくれるから、私はこの世界を美しいと思える…。もう思い残すことはないくらい、完成された美を見届けるなんて無理だって思っていたのに、貴女が傍にいてくれたら、そんな瞬間にも辿り着けるって信じられる。だから…同じ美を見つめる人として、私の傍にいてくれる?』

 彼女という美の求道者と、旅を共に出来る名誉に等しい喜びに、あの日の私は満ちていた。

 今にして思えば、あの告白に秘められた彼女の脆さに、私は気付けていなかった。

 あの告白は‐思い残すことのない美の瞬間を見届けたら、もう彼女はいなくなるかもしれない‐という、滅びの空気を纏った告白だったのに。

 

 この土地は、私と彼女が、まさに「思い残す事はない程の美の瞬間」を確かに見てしまった場所だった。

 今、私の胸に抱かれているノートの、彼女の最期のスケッチの舞台となった場所こそ、この港から臨む海だ。

 この海には異名がある。

 晩秋の夕暮れ、この海の夕凪ゆうなぎの上に日輪が浮かぶ。

 落日の陽光は夕凪の水面みなもを照らし、緋の橋を海へと浮かび上がらせる。

 緋の橋が夕凪に架かる時、空も海も、全てが緋色に染まり、ほむらが燃え盛るように見える。

 その景色からいつしか、この海は「焔灘ほむらなだ」という異名で呼ばれるようになった。

 

 生前の彼女-朱里が描きたいと熱望していた場所も、この焔灘だった。

 彼女はこの海への思いを、私にこう語った。

 「焔灘に架かる緋の橋を、私は一番綺麗な姿で描き残したい…。それはきっと貴女と一緒じゃなきゃ、出来ない事なんだ。貴女が一緒なら私は、思い残す事はないような美の瞬間にも手は届くって信じられるから…」

 

 高校時代の秋の暮れ、ローカル線の小さな電車とバスに揺られて私達は、夕陽の海がよく見えると聞いたこの港町に辿り着いた。

 少々肌寒い秋風の中、私達はバス停を降りてから、日差しが傾き始めた漁港の道を歩き、堤防に向かった。

 堤防に向かう途中、私と彼女のお互いの手はいつしか触れ合っていた。潮風の冷気から私の手を守るように、しなやかで温もりを帯びた彼女の右手が、私の左手を包んでくれた。

 人前では恥ずかしがって恋人らしい事はしない彼女も、この静謐な漁港の道なら出来ると思い、手を差し出してくれたのだろう。私は思わず顔が綻んだ。

 彼女が好んでつける香水や、髪から立ち上るシャンプーの爽やかな香りが微かに潮風に乗って、私の鼻腔をくすぐっていた。

 彼女の温もりや香りを感じながら、私は彼女と共に歩き続けて、目的地の堤防へと辿り着いた。

 堤防の一端にある階段を私達は昇っていき、堤防の上に並んで座った。


 晩秋の澄んだ空気の中、紅の日輪が夕凪の上に浮かんでいた。その陽光が光輝の眩しい夕凪を照らし、やがてその水面に緋色の橋を浮かび上がらせていく。

 空を見れば、青空は徐々に薄紅へ、色彩が階調を描くように徐々に変わっていく。

 千切れ雲もまた、夕陽の中、内側に火が灯ったように緋に色づいていく。

 空も海も全て焔に包まれたような景色は、「焔灘」の異名に相応しいものだった。

 しかし、彼女はまだノートを広げず、筆も取らない。

 堤防の上で、髪は潮風に微かに揺れ、夕陽に照らされる彼女の白い横顔は張り詰め、何かを迷っているようにも見えた。

 私が、どうしたのか尋ねようと、左隣に座る彼女に声をかけようとした時だった。

 彼女は私の頬に手を当て、顔をゆっくり近づけると‐私の唇にそっと口づけた。

 驚きがなかった訳ではないけれど、目に見える形で愛の証を託される喜びの方が、私の中では優っていた。

 私は静かに瞼を閉じ、それを受け止める。

 それは一瞬の温かい風が、ただ唇を撫でていっただけのような、軽やかな口づけだった。

 

 お互いの唇が触れ合った瞬間、私の中では不思議な事が起きた。

 あの緋の橋が、瞼の裏に浮かび上がってくる。

 私が瞼の裏に見たそれは、水面そのものが今や、燃えるように紅く染まり、海を貫くように西方の果てまで続いていく、現実以上に荘厳な緋の橋の幻だった。

 あの橋を歩んでゆけば、そのまま海を越え、西方の果てに辿り着けそうに感じられる。

 けれども、もし渡ってしまったら、緋の橋は落日と共に海中に没し、現世に魂は帰れず、彼岸の向こうへ行ってしまうだろう。

 私にそう確信させるほど、それはあまりに「死」の香りを纏った、美しすぎる幻の緋の橋だった。

 

 「貴女にも…今の景色、見えた?」

 そう尋ねる彼女の瞳の中にも、私の中をよぎったものと同じ、西方の彼方まで続く、緋の橋の幻影がまだ残っていた。

 「うん…。見えた。びっくりした…。あと、不意打ちは禁止ね、朱里」

 「う…ごめん…。でもここでなら、誰にも見られずにキス、出来るかもって思って…」

 そう話す、彼女の頬が普段より少し紅く見えたのは、きっと夕陽が照らしていたからだけではなかっただろう。

 彼女はノートを開くと、さっき私達が見た「幻影の焔灘」を頁に刻み込むように筆を走らせ始めた。

 

 それが、私が見た、スケッチを描く彼女の最期の姿だった。


 幾度もあの口づけの瞬間を想起しながら、私はあの堤防に向かって駆けていた。

 昼を過ぎた頃から、降り続いた霧雨は奇跡のように止み、海を日差しが照らし始めた。

 夕方、私は旅館を出ると、ノートを胸に抱いて夕陽の中を駆け、階段を昇り、あの堤防の上へ辿り着いた。

 堤防も、緋の橋の幻を見せた海も、見える景色は何も変わっていない。

 ‐全てがあの日のままなのに、私の隣に彼女だけがいない事を不思議にさえ感じた。彼女のノートだけが今、私の隣、堤防の上に、閉じたまま置かれている。


 あの緋の橋の幻を二人で見た日から程なくして、彼女は不幸な事故に見舞われ、その短すぎる生涯を終えた。

 至上の美を見てしまえば、命を失うとそう運命づけられていたかのように。


 私が、息を引き取る間際の彼女から聞く事が出来たのは、「緋の橋の向こうで待っている」という、あの言葉だけだった。

 

 あの口づけの時に「思い残す事のない美」の幻を私達は見てしまったから、運命は彼女の魂を彼岸へと連れて行ったのだろうか。

 

 『あの口づけの瞬間、緋の橋の幻を見なければ、貴女は今も私の隣でずっと、スケッチを描いてくれていたの…?』

 何も語らぬ夕凪に、私はそう問いかける。

 私には、彼岸の彼女に問いかけられる場所は、この海以外にもう考えられなかった。

 

 私の前で、あの日と同じように、紅の日輪は夕凪を真っ直ぐに照らし、緋色に染まる水面に、一本の光の太い筋が、橋のように浮かび上がってくる。

 「私はあの橋の向こうで待っている」と彼女が言った、あの約束の緋の橋だ。


 夕凪に浮かぶ緋の橋を見つめていた時、水面を急に潮風が揺らし、堤防の私の元へ風が届いた。

 その潮風が私の頬を撫で、髪を揺らした時-、その中に感じた匂いに私の鼓動は大きく乱れた。

 それはあの日、この堤防へと二人で向かう途中、潮風に乗って私の鼻腔をくすぐっていた、彼女が好んでよくつけていた香水の香りと同じだったから。


 目の前には、光輝が眩い水面の上に鮮やかに緋の橋が浮かび上がり、焔灘に浮かぶ紅の日輪の下まで続いていた。


 この焔灘は、現世にいる私と彼岸の彼女を隔てる海。

 紅の日輪は、私と彼女の間を結ぶ緋の橋を架けてくれたのだと私は信じられた。

 

 だから私は、緋の橋の対岸にいる筈の彼女に向けて、堤防から声を放った。

 「朱里のバカ!確かに…あの時、この海辺でキスした時、二人で見たあの幻の緋の橋は本当に美しかったけど…それを見届けたからって、私を置いていかないでよ…!私はっ、私は…貴女の美を追い求める旅に、もっと…一緒にいたかったのにっ…!」

 言葉の最後は震え、嗚咽によって形を成さなかった。

 胸を裂く哀惜の念は心の古傷を開き、血が流れだすように、私の瞳から透明な心の流す血が頬へと零れ、足元の堤防に寄せるさざなみへと落ちていった。


 ‐西へと続く、緋の橋が架かる方角から私に、先程より一際大きな潮風が再び吹き付ける。

 傍に置いていた彼女のノートが開き、パラパラと潮風に捲られる。

 私の顔を撫でた冷涼な潮風に混じって、仄かに温かい風が私の唇をそっと撫で、冷えた私の唇に熱を宿した。

 それは潮風に身をやつした、彼女の魂からの口づけのように感じられた。

 その潮風に混じり、私は確かに聞いた。

 他ならぬ彼女の声で

 「約束を…守りに来てくれてありがとう。また…会いにきてくれるよね」

 と囁く声を。

 彼女は私を置いていってなどいなかった。

 約束を守って、あの緋の橋の向こうでずっと私を待っていたのだ。

 まだ、頬に零れる雫は止まらないが、私は瞼を閉じて、小さく

 「あんな事言って、ごめんね…。貴女はこの場所で私を、ずっと待ってくれていたのに…」

 と、海に向かってそう告げた。

 

 現実の緋の橋が海に架かる時間は、呆気ない程短い。

 私と、彼岸の彼女を確かに繋いだ緋の橋は、日輪が姿を隠すと共に、その光を波間に散らしていき、やがて夕凪の下へと沈んでいった。

 潮風に捲られたままのノートにふと目を向けてみる。

 そこに描かれていたのは、彼女の最期のスケッチ。

 あの口づけの刹那に私と彼女が確かに見た、至上の美の瞬間-焔灘に架ける緋の橋の幻を、彼女がこの堤防で描いたものだった。

 そこに描かれていたのは、現実ではなし得ない、日輪が隠れても決して波の下に沈む事のない、永遠の緋の橋の姿だった。

 今、ようやく私は、幾度も見ようとしてはノートを閉ざしてきた、彼女のこの最期のスケッチを見る事が出来る。

 この絵はもう、見るだけでも耐え難い惜別の記憶ではなくなった。

 現世を生きる私と、彼岸の彼女の魂は、この永遠の緋の橋で繋がっていると私に信じさせてくれる、光へと変わった。

 私はそっと、ノートを手に取り、まだ微かに残る夕陽の残光の中、 彼女の最期のスケッチの頁を見つめて、そんな事を考えていた。

 緋の橋はもう見えない焔灘を背に、私は堤防から降りようと階段に足を下ろしかけた。

 そこで一度私は立ち止まり、もう薄闇に沈みつつあった海へと振り返る。

 その彼方の彼岸にいる彼女へ、語りかけた。

 「約束するよ…。次の秋も、また次の秋も…、この海に緋の橋が架かる時、また、朱里に会いに来るって。だから…貴女は緋の橋の向こうで待っていてね」

 私はそう言い残すと、次はもう振り返ることなく、堤防の下へと降りていった。


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