うららは死の匂いがした。だから僕は、
雨屋飴時
うららは死の匂いがした。だから僕は、
朝。おばあちゃんが、布団の上で冷たくなっていた。
揺すっても、呼びかけても、返事をしない。
ここのところ、おばあちゃんからはずっと死の匂いがしていた。
きっと、おじいちゃんが迎えに来たんだんだろう。
その証拠に、おばあちゃんはとても幸せそうな顔をしていた。
この家で僕にご飯をくれるのは、おばあちゃんだけだった。
お母さんは僕を嫌っていた。
おばあちゃんのいないところで蹴られたり、納屋に閉じ込められたことも数えきれない。
この家に、僕を好きな人はもういなくなってしまった。
僕は、家を出ることにした。
◆◆◆
家を出てから二週間がたった。
喉が渇いたら川の水を飲み、お腹がすいたら畑になっているリンゴを食べた。
僕がふらふら歩いていると、時々ごはんをくれる人もいた。
その中の一人が、
僕が公園にいた時、麗が話しかけてきたのが始まりだ。
麗は中学生の女の子で、人懐っこい笑顔が可愛らしかった。
そして、麗からは少しだけ、死の匂いがした。
麗は夕方、空が暗くなったころに毎日やって来た。
「れい、きたよ!」
そう言って、麗は僕を抱きしめる。
少し汚れた制服からは、きつい香水の匂いがして嫌だったけど、僕は拒否しなかった。
「今日はこれね」
パンを手渡されて、僕は頭を下げる。
麗はいらないの、と首を傾げると、
「わたしはいいの」
と笑った。
細くて今にも折れそうな麗のことは心配だったけど、僕はお腹がすいていた。
情けなくも、僕はパンにかじりつく。
「おいしい? あんまりあげれなくて、ごめんね」
麗が僕の頭をなでる。
麗の瞳は暖かくて、大好きなおばあちゃんを思い出した。
そっとその手に頭を摺り寄せる。
麗は花が綻ぶようにふふふ、と笑った。
三日月が、夜空にくっきりと浮かんでいた。
「
急に、刺すような鋭い呼び声が聞こえた。
びくり、と麗の肩が跳ねる。
声のした方を見ると、公園の出入り口にシーパンにTシャツ姿の女の人が立っていた。
声と違って、その人の顔はにこにこ笑っていた。
「お母さん」
麗の雰囲気が変わったのが分かって、僕はじっと麗を見る。
暗くて表情が見えない。
でも、麗の汗から恐怖の匂いがした。
もう一度、『お母さん』と呼ばれた人を見る。
麗は、その人の下に走って行っていた。
「何やってるの」
お母さんが心配そうに眉をひそめる。
でも、僕には分かる。
『お母さん』の声は、妙に冷たかった。
僕のお母さんが、僕に向けていた声みたいに。
麗が心配で近づくと、「何、この汚い犬は」と、『お母さん』と呼ばれた人が僕を蔑んだ。
そのわりには腰が引けている。
ははん、こいつは僕が怖いんだな、と思った。
「この公園で最近会ったの。
ほら、もう行こうお母さん」
麗がお母さんの腕をとる。
さっきはあんなに怖がっていたのに、今度はその人に優しい笑顔を向けていた。
よく分からない。
僕は僕を蔑む人に笑顔なんて向けない。
麗は『お母さん』が好きなのかな。
『お母さん』の腕を引いて公園から退きながら、麗がちらりと僕を見る。
また明日ね。
口唇がそう動いて、僕の尻尾が勝手に揺れた。
◆◆◆
麗はそれからも毎日来た。
でも、一番星が見える頃には帰るようになった。
そして、麗からする死の匂いは日に日に強くなっていった。
ある日、僕は麗の腕に青あざがあるのを見た。
ぺろり、となめると、麗は目を細めた。
「ありがと、れい。優しいね」
どうしたの、と首を傾げると、麗は「お母さん、機嫌が悪いと怖いんだ」とだけ言った。
「他にもたくさんあるよ。
お腹とか、背中とか、太ももとか」
あはは、と麗が笑う。
ぽろりぽろり、と目からこぼれた雫を、僕はなめた。
しょっぱくて、寂しい味がした。
その日、僕は麗の後ろをつけた。
麗がゆっくり歩くから、こっそりついて行くのは大変だった。
信号を渡り、商店街を通りすぎる。家はどんどんなくなって、何もない寂しい場所にぽつん、と木造建ての古い家が建っていた。
麗がその戸を開ける。
瞬間、ぐい、と麗の腕が誰かに引かれて、吸い込まれるように消えていった。
麗が心配で、僕は家の周りをぐるぐるした。
けれど、入れるような場所はない。
時々、女の人の叫ぶような怒号が聞こえたけど、麗の声はしなかった。
僕は麗を呼んだ。
何度も呼んだ。
でも、戸が開くことはなかった。
たくさんたくさん呼んだけど、誰かが来ることもなかった。
僕は家の庭の隅で寝ることにした。
次の日の朝。
『お母さん』と呼ばれる人が家から出て来た。
見つからないように見送ってから、僕は小さく麗を呼んだ。
でも、戸は開かなかった。
夜になって、『お母さん』が帰って来た。
また、怒号が響く。
でも、麗の声は聞こえなかった。
ただ、麗からしていた死の匂いがもっと強くなっていた。
◆◆◆
次の朝。
『お母さん』が戸を開けた。
僕は辛抱たまらなくて、その足の間をすり抜けて中へ入りこんだ。
ひゃ、と『お母さん』と呼ばれた人が小さく叫ぶ。
玄関はきれいだったけど、家の中は嫌な臭いで充満していた。
食べ物が腐敗した匂い。
カビの匂い。
髪の毛やほこりが廊下中に散らばっている。
僕を捕まえようとする『お母さん』の手にかみつこうとすると、ひああ、と情けない声を出してその手が引っ込んだ。
僕は麗の下へと急ぐ。
廊下の先のふすまの中から、麗の匂いがした。
前足と鼻を使ってなんとか開ける。
部屋の中は、ゴミ袋と本で散乱としていた。
ゴミ袋を越え、本の上を滑りながら麗を呼ぶ。
「……れい?」
麗の小さな小さな声が聞こえて、僕は駆け寄った。
麗が、ごみ袋と本の隙間に横たわっていた。
麗の顔はぱんぱんに腫れあがっていいる。
大丈夫?
どうしたの?
頬をぺろりとなめる。熱い。しょっぱい。
ふと、制服のスカートから覗いた麗の太ももを見る。
その足は青く、斑に染まっていた。
「なんなのこの犬は!!
外から聞こえていた怒号と同じ声が、後ろから降って来る。
「逃げて!」
麗が叫んだ。
僕はひょい、と『お母さん』の脇へ避ける。
すると、『お母さん』が麗の胸倉をつかんだ。
「あんたがこいつをつれこんだのか!」
ばしぃ、と頬を打つ音。
麗に何をする、と僕は『お母さん』に飛び掛かる。
腕にかみつくと、ごり、と嫌な音がした。
「れい!」
麗が叫ぶ。
『お母さん』は「いやあ!」と泣き叫んで、腕を振り回す。
僕は腕を離して、『お母さん』と呼ばれる人を睨みつけた。
「やめて、れい!」
麗の目が悲痛に揺れている。
どうして止めるの。
だってその怪我、こいつにされたんでしょ。
分かるよ。
僕も、たくさん蹴られたもの。
その痩せた体も、ごはんももらえてなかったんでしょ。
分かるよ。
だって、ぼくもお母さんにそうされてたもの。
僕は麗の『お母さん』を見る。
許せない。
麗はこんな状態でもお前が好きなんだぞ。
それなのに、麗をこんな風にするなんて許せない。
麗を見る。
麗は首を振って、僕を止める言葉を繰り返す。
でも、ふと。
僕は見てしまった。
麗の目の中に、少しの期待。
そうとも、麗。
それが本当の望みでしょ。
僕が、かなえてあげるから。
僕は『お母さん』にもう一度飛び掛かる。
そして、そのなまっちろい喉笛にかみついた。
気づくと、部屋は真っ赤に染まっていた。
ごぼごぼ、と『お母さん』が何か言っている。
『お母さん』からする濃い死の匂い。
麗の下へ行くと、麗は僕の名を呼んで泣いた。
「どうして」「だめだよ」と何度も呟いて、でもその手は僕の頭を撫でた。
「れい、警察を呼ぶから、もう逃げて」
と麗が言った。
麗は自分の服で僕の顔を拭く。
服も赤く染まっていた。
「この町から離れて、ずっとずっと遠くに行くんだよ」
麗も一緒に行こうよ。
もう麗のことを叩く人はいないよ。
そう言ったけど、麗は首を振る。
「ううん。わたしは行かない」
その目は、少し怒っているようだった。
『お母さん』を動けなくした僕を怒ってるの?
くーん、と鳴くと、麗の目からぽろり、とまた涙が零れる。
なめとろうとしたけれど、麗は首を横に振った。
「お母さんのこと、いなくなってほしいって思ってた。
でも――」
麗が動かなくなった『お母さん』を見やる。
れいのこと、ちょっと許せない。
そう、小さく小さく、麗は呟いた。
「ごめんね、れい」
麗に促されて、僕は家を出た。
でも、麗が気になって、しばらく家を見つめていた。
時間がたって、パトカーの音が遠くで聞こえ始めて、僕はやっと麗の家から離れて歩き出した。
どこからか、おばあちゃんの匂いがした気がした。
うららは死の匂いがした。だから僕は、 雨屋飴時 @ameamerainCandy
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