酔生夢死
東九条 薫
酔生夢死
三途の川の渡し守をしていた。雇われの日毎に上から銭を貰って暮らすしがない労働者であった。
死んですぐの者たちは自分の存在と状況が曖昧であり、形とそれ以外の透明なものとの違いが分からず苦しんでいるため、私のような水先案内人が必要なのである。
死者というのは、しっかりとした意識をもっておらず、皆酔いの渦中で溺れているような眼をしており、時には取り乱し、川の中に飛び込もうとする酔狂な者も現れることがあった。
人というものは、自分という容器の終わりが目と鼻の先にまで近づくと、どうも自分のこれまでの半生、つまり生きていた頃のことを話し出したくなる質らしい。私のような、死者からしたらこの川の上で初めて目と目を合わせた者に対してでさえ、人は自身の歩いてきた道程を訥訥と話し始めるのだ。
人というものは、どうやら簡単に類型化できないほどに、様々な生命の消費の方法を採っているらしく、その説話を聞くことは、最初はそれなりに楽しかった。水上での暇を潰すことが出来るくらいには楽しんで聞いていた。
しかし、このところはどうも興味を持つことが出来ないのである。私も勤続年数を滔々と重ねていったせいもあるだろうが、死者の話を来る日も〳〵聞いていると、細部はやや異なるが大きな筋は一緒、のような話が否が応でも見つかってしまうのである。人を恨んで殺し、その罪から逃れるため、自殺をしたケース、家族に囲まれながら、最期の時を迎えたケース、知らず知らずのうちに病に倒れてしまったケースなど、死者の語るエピソードはやはり、どこか似たり寄ったりのものなのである。死んだ原因も死ぬ動機も、一段と一辺倒なものに見えてきて、新鮮な気持ちで話を聞くことが出来なくなってしまったのである。
舟の中には退屈を紛らわせるような品は一つも無い。本も無いし、楽器も無かった。内にあるのは集金用の壺、外にあるのは波を淑やかに揺らすいっぱいの河水だけであった。川というよりは桶の中に満たされている満杯の水という心地であった。
空は霧のような、霞のような色をしており、それなりに明るかった。彼岸と此岸の狭間にある、この川は時そのものがぼやぼやと確かな形をもっていなかった。すべてがどうでもよくなるような空間であった。
今日もまた此岸に人がいた。
此岸は一本の桟橋のようなものがあるだけで、他には何もなかった。殺風景である。だからこそ、死者は自分が死んだことに気付かないのかもしれない。自分がどこにいて、何をしているのかも忘れさせてしまうような茫漠が、そこに横たわっていた。
橋の先に一人の男がいた。彼はスーツを着ており、髪型もきっちりと整えていた。狭間の世でスーツを着る者は非常に珍しかった。普通、死者は死に絶えたときの衣を身に着けているため、その多くは病院着のような簡素なものである。しかし、彼は身なりを入念に整えてから死の海に飛び込んだのだ。
並々ならぬ非日常さを私は薄々と感じ始めていた。
波が橋へ向かう。桟の柱に水が打ち寄せ、拍動のような穏やかな瀬音が静かに鳴っていた。
櫂(かい)は前後に動く。櫂が水を振るたび、舟は滑るように真面へと向かっていた。
舟と桟橋が軽く当たった。鹿威しのような雅な音が一つ浮かんだ。
「三途の川の渡し守だが、君、乗っていくかい」
「はい、是非お願いいたします」
「おうよ、六文、持っているかい」
「すみません、ある事情があって、何も持っていないんです」
「そうかい、それは残念だ。いやあ、こっちも商売なもんでえ…タダで乗せるわけにはあ…」
「でも、どうしても私は生まれ変われないといけないんです。どうしても。約束したのです。約束したのですから。どうか、お願いです。私を彼岸まで送り届けて頂けないでしょうか。理由なら事細かくお話いたします。必ず後悔などさせません。どうか、どうか…」
男は涙ながらにそう言って、私の腕を抱き、熱烈に私を説こうとしていた。
これまで見た死者は、どんよりとしており、意思も遊離しかかっている者ばっかであったため、確固たる何かをその身に宿しているこの男に、私は些かの興味を抱いた。話のネタにでもなれば良いなあと思ったのであった。
「おうよ、とりあえず乗れよ。話はじっくりと聞いてやるからさ」
「ありがとうございます。誠心誠意、自分の身の上をお話したいと思っております」
舟が揺れた。此岸が幻のように遠ざかって行った。
*
彼岸まではいくらか距離があり、時間もちょいと掛かるのだ。
鏡のような水面は、私と死者の男を映していた。
男は口を開いた。
「私は生前、ある女性に恋をしてしまったのです。彼女は桃奈という名前でした。桃奈は私より二つ年下の女性で、肌は絹のように白く、透き通るほどに肌理が細かかったのです。桃奈は豊かな胸や太腿をもっており、非常に床上手でありました。こんな下品な話をしてしまい、申し訳ございません。でも、私はただ彼女の魅力を事細かにお伝えしたいのです。桃奈はキスが上手く、私は一回の口吸いで、蕩けるほどの脱力感を味わってしまったのです。桃奈は私が部屋に入るとすぐに丁重におもてなしをしてくれ、メイドのように私の身体を洗ってくれるのです。そして、そのまま私は横になり、そのまま愛を育んでいったのです。幸せでした。彼女が私のために尽くしてくれるところが、堪らなく愛しかったのです。恋慕の情は少しずつ私の頭をすっぽりと覆っていったのです。抱きしめたかった。抱きしめられたかった。恋をしていたのです。思い切って私は部屋を出る前に自分の想いをお伝えしたのです。緊張しました。ドキドキしておりました。何を言ったか、私はあまり覚えてはいません。桃奈は困ったような、戸惑ったような、でも口元にはやさしい笑みが浮かんでおりました。桃奈は〈嬉しいけれど、アタシはまだあなたのことを全然知らないし…そうだ、ゲームをしましょ。あなたが死んで、三途の川を渡って、尚アタシのことを覚えていたら、アタシはあなたに添い遂げますわ。生まれ変わって、また出逢いましょ〉と言いました。素敵な言葉でした。生まれ変わって、また出逢いましょ、なんて幻想的で桃奈らしい表現だなあ、と私は感動したものです。いてもたってもいられませんでした。早く桃奈を私のものにしたかったのです。私は財布を桃奈に渡し、〈これで美味しいものでも食べて。私は行くから〉なんてクサい科白吐いて、部屋を出て、外へ出て、街へと飛び出しました。一心不乱だったのです。夢中だったのです。もう桃奈の声以外のすべての音が耳に届かなかったのです。生まれ変わりたかった。彼岸へ向かい、桃奈を見つけたかったのです。だって、桃奈が好きで好きで仕様が無くて、仕様が無くて、そして桃奈を信頼していたから。桃奈を信じていたから。桃奈の着ていたエレガントかつ大人っぽいドレスが脳裏で舞っておりました。桃奈は派手な衣服をそつなく着こなしてしまう女性であったのです。今考えてみると、私が外へ飛び出したとき、桃奈は私のことを引き留めてくれていた気がします。やさしい人でした。私は誰の言葉も信用せず、ただ、桃奈にこの身を捧げようと決意したのです。そうと決まればもうこの命など無価値に等しい、早く生まれ変わらねばならない。気付いたら、私は歩道橋の真ん中に立っておりました。私は何も持たず、何も負わず、ただ桃奈のことだけを考えて、跳躍したのです。越境したのです。テールランプと黒、それが最後の記憶でございます。だから、だから、私はどうにかして彼岸へ連れて行って欲しいのです。財布は愛しの桃奈に別れの品として渡してしまったのです。ですから、どうか、どうか私の願いを叶えてくださりませんか。桃奈を迎えに行かねばならないのです」
波が先ほどより激しく紋を描いていた。男の熱に応えるように川は肌を震わしていた。
私はしばらく目を瞑っていた。ゆっくりと男の思いを見定めたかったのである。
不思議な男だ、というのが話を聞き終えた音の第一印象であった。愛する女と共に結ばれない現世を恨みながら心中する、というのはよく聞く話だが、来世で出会うことを頼みとして、容易に死ぬ人間は中々に珍しかった。来世で契りを交わそうとする、というのは、反対に言えば、〈今世では振られた〉ということになろう。なのにこの男は、凹むどころかむしろ来世に希望をもち、死んだのである。身なりのしっかりとした状態で現を捨てたのである。
馬鹿な男だ。非常にくだらない男だ。第一、来世も人として生きられるとは限らないのに。彼に恐れは無かった。あるのは、目一杯の思慕であった。
くだらない。本当にくだらない一生の使い方であった。
私は馬鹿で真っ直ぐな人間が、たまらなく好きであった。
男は潤んだ瞳で私を見つめていた。死んでいるというのに熱き血潮の気配が眼下で蠢いているようだった。
「お前さんは本当に馬鹿だねえ。筋金入りの馬鹿だ。女の尻を追っかけ回して彼岸にまで来ちまうんだから。よし、お前さんのその大馬鹿さ加減に免じて、ここは一つ慈悲を与えよう。タダでいいさ。この馬鹿者めが。感謝しろよう。その女、迎えに行ってやりな。ほらっ」
男は泣いていた。死者の嬉し泣きというのは何とも珍しい。不思議なもんだ。
「ありがとうございます。ありがとうございます。必ずこの恩は、この恩は…」
しゃくり上げ、喉には力が入りすぎていた。これが感情なのか、と私はしみじみと体感していた。
舟は彼岸へと滑って行った。
波は乳白色の天を穏やかに吸い込み、一面シロツメクサが繁茂しているようであった。
泣いている男と渡し守は彼岸の岸辺へと吸い込まれていった。
*
今日も私は死者を引き渡す水先案内人であった。
舟を緩やかに漕いでいた。桶のように溜まった河水はむくんだ女の皮膚のように妙な弾力を備えていた。
空は抗生物質の粉のように白く細かかった。
舟は笹の葉でできた代物のように、陳腐でちっぽけな風姿で、川の表皮をなぞっていた。
舟底には六文銭を集めるための布袋しか無かった。相も変わらず文庫本などは持ち合わせていなかった。
退屈であった。鬱屈としていたのである。
舟を滑らす。
前方に此岸が見えてきた。死者などが集まる場所であり、渡し守を必要とする場所でもある。
また一人、人の姿があった。女であった。
瞬間、面妖な何かを感じ取った。
女は半透明だったのである。エレガントで艶やかなドレスを身にまとい、上衣の外からは淫らな白い肉が大胆に露わになっていた。上品な女に見えなかった。目はあまり焦点が定まっておらず、口元も不用心であり、酔いの最中にいるような表情であったため、むしろ下品で下劣な私娼、というふうであった。
女は力なく、だらりとこちらに手を振る。脱力しきったその顔面には一種の病的な何か、依存のような執着のようなものが映っていた。顔は良かったが婬の気配が腐臭のように、なんとなく漂っていたのだ。
「ここはどこぉ。アタシ死んじゃったのぉ。なんか酔っぱらっちゃって、何も分かんなあい」
「ここは三途の川でっせ。そして、私は三途の川の渡し守であります」
「三途の川ぁ。なんか聞いたことあるかもぉ。アタシみたいな性欲塗れの尻軽女でも乗せてってくれるのぉ」
「六文かかるけど、乗せてってあげましょう」
「六文かは分からないけど、アタシお金なら沢山持ってるのよ。好きでもない人のものをジュポジュポしゃぶったり、下の口の襞で弄んでいたから、札は沢山あるのよ。どう、いいでしょう。淫乱なお金持ちよぉ」
「へェ、それでは一枚頂きやすぜ」
ぐったりとした女を乗せて、舟は岸から身を離す。身体の至る所に弾力のある脂がついており、胸元のざっくり空いたドレスからは、牛の乳のような双丘がまろびでていた。
私は女を改めて凝視してみた。艶やかなドレスとグラマラスな体躯、口吸いの上手そうな長いどろりとした舌、絹か何かのような細かい肌。すべてあのスーツ姿でやってきた男の話していた桃奈という女の特徴と一致していた。半透明である訳はよく分からないが、男が熱弁していた人物に確かによく似ていた。
私は今日の暇を潰すために、女に幾つかの問いを投げてみた。
「お客さんもしかして、先日ある男に告白されたりしませんでしたか」
「ええ、なんで知っているのぉ。そうよぉ、アタシね、ソープ嬢やっているんだけどね、ちょっと前にキチガイがアタシのところに来たのよぉ。なんかソープにスーツで来ているから、ハナから怪しんでいたんだけどね、その男三十手前のいい大人なのに童貞でさ、もうアタシの乳を触る感じとか、初心すぎてダサいのぉ。ザ・童貞みたいな。なのに、下だけバカみたいにおっ立てやがってさ、もうほんとおに見ていられなかったあ。しかも、それだけじゃなくて、プレイが終わった直後に急に告白しやがったのぉ。もお、意味わかんないし、チョーキモい。あまりに真剣にバカみたいな告白してくるから、私も精一杯からかってやろうと思って、〈生まれ変わって会えたらオッケーしてあげる♡〉て言ったの。したら、あの男はほんとにバカでねえ、遠回しに断ったのに、あいつ本気でアタシの言葉を信じちゃってさあ。そっからもう大変よぉ。アイツ、金も払わず、いの一番に外へ飛び出しやがってェ。おかげでアタシも店長に怒られたんだからぁ。もう、いやんなっちゃう。これだから短小バカの童貞は相手にしたくないのよぉ。くだらないことに本気になっちゃうんだからぁ」
インバイはその粘りを帯びた口腔を存分に見せながら、際限なく話していた。精液が血管の中を循環しているのではないか、と疑ってしまうほど、女は厭らしかった。無知蒙昧という語がセックスをして、生まれた赤子なのではないか、と思われるほどに無教養のクサレホトであった。
「そうかい、そうかい。ところで、お前さんの身体は透けているのだけれど、何か死ぬ間際の記憶とかはないのかい」
「ううん、なんだか頭がくらくらして思い出せなくなっちゃったなあ。ああでもぉ、どっかの男が持ってきたやつキメて、セックスしてたかもしれなあい。それで死んじゃったのかなあ。うけるう」
もしかしたら、この女は生霊なのかもしれない、と私は思った。薬物か市販薬でODをして、そのトリップの反動で生霊としてここに迷い込んだのかもしれない。だから、女はまだ死者として未確定的である半透明な存在であるのかもしれない。
男は彼岸へ旅立ち、このキメセククサレホトは此岸に取り残される。二人が出会うことは恐らく無い。男とクサレホトの間には、無限に等しい奥行があった。彼らは永遠に〈逢うために死んだ童貞〉と〈キメセククサレホト〉のままであるのだろう。
女は泥のように舟底の部分で消えてなくなった。
酔いの揺らぎのように、波はその薄膜を揺曳させていた。
夢幻のようにくだらないものが、岸辺に打ち寄せていた。
〈了〉
酔生夢死 東九条 薫 @Kujok
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