大人の恋愛狂想曲

森の ゆう

第1話 婚活・マッチングアプリ編

アプリを開くたび、私はちょっとだけ猫背になる。

「今日も日本経済に貢献しよっか」

 課金ボタンの横で、薄く笑う自分のサムネ。逆光のカフェで偶然撮れた一枚は、肌が飛んで毛穴が消え、輪郭がバグっている。現実との差異については、心の中で“照度補正”と呼んでいる。

 きっかけは先週だ。同僚の美紅から「結婚する」とLINEが来て、五分後、学生時代の友人から「離婚した」とFacebookで知らされた。私は電車の中で、ドアの小窓に映る自分を見た。そこにいたのは、広報の修羅場を幾度も越え、最新トレンド語尾「〜いがち」を使いこなし、冷蔵庫には賞味期限切れの豆板醤を常備する、三十七歳の女子。

 人生、報道発表みたいにタイミングよくはいかない。だから私は、プレスリリースの文言を推敲する勢いでプロフィールを書いた。

〈趣味:ランニング(主に朝の電車に向かって)/好物:春巻き(年齢非公開)〉

 最後の一文で手が止まる。年齢を隠すのは感じ悪い? でも、あからさまに書くと“選考”の一次面接で落ちる気がする。私は数字の欄を空白のまま保存して、スマホを伏せた。

 マッチは、思いのほか早く来た。

 最初の相手は、アプリ名物「筋肉アピールさん」。上腕二頭筋が文句なしに二頭いた。

〈毎朝自分に勝ってます!〉

 メッセージ一通目で、私の眠っていた反骨心が起き上がる。

〈まずは昨日の自分に謝ろうか〉

 既読がついてから、二度と彼は現れなかった。たぶん、腕だけでなく心も強くないと、私はうっかりツッコんでしまう。

 二人目、三人目も、写真と語彙が合っていなかったり、会話が“目玉焼きは醤油派かソース派か”で全力疾走し過ぎたりして、私はまた猫背になった。アプリはオーケストラだ。バイオリンの弓も揃わずに、シンバルだけがやたら鳴る。

 四人目の通知は、夜中の一時に来た。

〈はじめまして。“春巻”と申します。辛子はつける派ですか〉

 アイコンは、角がカリッと揚がった春巻。潔い。文章は短く、句読点の位置がきれいだ。プロフィールには「職業:企画/年齢:非公開」。そして、好きなものの欄に「人の話を聞くこと」とあった。

〈辛子は現場次第です。ソースは、裏切らない〉

〈現場主義、好感です。差し支えなければ、苦手なものも教えてください〉

〈白湯のつもりで飲んだら魚介豚骨だったとき〉

〈それはもう事件〉

 深夜の会話は、なぜか体温が同じになる。“春巻”は、時折ボケる。私が拾うと、こっそり拍手の絵文字を投げる。テンポがいい。翌朝の化粧が、少しだけうまくいった。

 やり取りは一週間続いた。彼は私の仕事の愚痴を面白がり、私は彼の「社内の謎ルールあるある」に頷いた。互いに年齢は訊かない暗黙の協定ができ、代わりに「今日の一皿」を送り合った。私の“今日”は、コンビニの小松菜ナムル。彼の“今日”は、職場近くの定食屋らしいアジフライ。写真の端に映るメニュー札の字が、妙に渋い。

 ある夜、彼が切り出した。

〈もしよければ、土曜にお茶でも〉

 私はスマホを握り締め、豆板醤の瓶がカラカラ鳴る台所で深呼吸した。会う? 会わない? 大人はスケジュール調整の上手さで生存する。私は、手帳の空白と心の隙間を見比べ、思いきってこう打った。

〈了解。十四時、渋谷の“U”というカフェはどうでしょう〉

〈行きます。春巻き日和でありますように〉

 土曜日。私は“照度補正”の現場再現を試みた。逆光を求めて窓際へ、しかし家の窓は北向きで、逆光も順光もない。仕方なく、窓に向かってオレンジの付箋を貼る。自作夕焼け。鏡の中の自分は、ギリギリ、あのサムネの親戚くらいには見えた。

 渋谷のカフェ“U”は、曲がるべき角を一つでも間違えると迷子が量産される立地にある。私は五分前に着き、席を確保し、メニューを開いた。春巻きはなかった。

 十四時ちょうど、ドアが鳴った。

 入ってきたのは、会議室で何度も私の提案を“建設的に”粉砕してきた、あの外部コンサル。黒縁メガネ、無駄のない歩幅、必要最低限の笑み。原牧。

 ——え、なんで。

 彼は私を見るなり、半歩だけ立ち止まって、ほんの少し肩を落とした。

「……やっぱり」

 やっぱり?

「水瀬さん、“春巻”です」

 私の脳内で、会議室のプロジェクターが煙を吐く音がした。

「ハラマキ……春巻……」

「安直で、すみません」

 私はメニューを閉じ、窓の自作夕焼けを思い出し、次の瞬間、笑ってしまった。逆光でも順光でもない、照度ゼロの笑い。

「原牧さん、年齢非公開のコンサル、いたんですね」

「互い様でしょう」

 彼は席につき、さっそく店員を呼ぶ。

「アイスコーヒー、ミルクなし。あと——春巻きが、あれば」

「ありません」

 店員はすぐに去り、私たちは同時にため息をついた。

「まずは、仕事の顔を脱ぎませんか」

 彼が言った。

「今日はプレゼンもしないし、KPIも追いません。追うのは、氷が溶ける速度くらいで」

「じゃあ私も、炎上想定Q&Aは閉じます」

 アイスコーヒーが届く。氷が、コロンと鳴る。

「正直、驚きました。アプリで“原牧さん”に当たる確率って、都市伝説級」

「僕も同じ気持ちです。ただ……」

 彼は少しだけ眼鏡をずらした。

「メッセージの“現場主義”で、うっすら気づいてました」

「なんで」

「会議のあなたが、ときどき言うじゃないですか。『現場に聞いた?』って。あれ、好きなんです」

 好き、という言葉に、氷が一個、余計に溶けた。

「でも、困りましたね」

「何が」

「社外コンサルと、クライアント広報。利害関係の塊」

「利害は置いといて、人間としてはどうですか」

 私がわざとラフに言うと、彼は少し考えてから、真面目に頷いた。

「人間としては——あなたのツッコミの角度が、非常に良い」

「角が立ってない?」

「立ってます。でも刺さらない。ちゃんと、笑える」

 私はアイスコーヒーを混ぜながら、喉の奥で笑った。会議室の彼より、ずっと言葉がやわらかい。

「原牧さんこそ、メッセージのボケが地味に上等でした」

「地味、なんですね」

「褒めてます」

 気づけば、氷は半分になっていた。追いかけたKPIより、よく溶ける。

「ところで」

 彼が声を落とす。

「プロフィール写真、逆光でしたよね」

「え、見抜かれてる」

「広報の逆光は信用できるって、家訓で」

「どんな家だ」

 二人で笑う。笑いの音が、窓の外まで転がっていきそうだった。

「次、どうします?」

 彼が姿勢を正した。会議のときの“次アジェンダ”の声色なのに、少しだけ甘い。

「このあと、代々木公園でも歩きます? 春巻きはないけど、屋台の焼きそばなら」

「賛成。青のりは、利害関係より強い」

 会計を済ませ、店を出る。ビル風がシャツの裾を揺らし、午後の陽が、オレンジでも逆光でもない、正しい明るさで降りてくる。

「ところで、水瀬さん」

「ん?」

「年齢、聞いていいですか」

 立ち止まった私に、彼はすぐ手を振った。

「冗談です。氷が全部溶けたら、聞きます」

「じゃあ、冬まで内緒だね」

「長期戦、望むところ」

 横断歩道の信号が青に変わる。私たちは歩き出す。足並みは会議室よりもずっと合っていて、でも完全には揃わない。大人の歩幅は、それぞれの事情を抱えている。

 公園の入口で、屋台の湯気が上がっていた。

「焼きそばふたつ。青のり、現場主義で」

「現場主義の意味、そろそろ定義しましょうか」

「簡単です。あなたと私が、今ここにいること」

 彼は少しだけ目を見開き、すぐに笑った。その笑いは、逆光にも順光にも強い。

 私は思う。アプリは確かに狂想曲だ。いろんな音が勝手に鳴って、時々カオス。でも、指揮棒を持つのはいつだって自分だ。

 ——次の小節、ちょっと踊ってみる?

 私の足先が、青のりをこぼさない程度に、小さくリズムを刻んだ。

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